Hisashi Miura Early Essays Part 7 (1980年) 最終章

31.人間は何かを殺さなければ一日も生きて行けない
32.鴉啼いて私も一人
33.子供の頃よく縁側に出て、雨だれが落ちるのを見ていた
34.ここらで人生に対して攻勢に出ようか
35.夏よ、淋しさと満たされぬあこがれに満ちた夏よ!
三浦 久

アルバイトニュースより


31. 人間は何かを殺さなければ一日も生きて行けない(1980年3月14日)
 できることなら殺生をしないで生きたい。しかし、人間は何かを殺さなければ一日も生きて行けない。それは悲しい現実である。昔、ぼくが菜食主義で、肉や魚を食べなかった頃、多くの人たちから言われた。植物も生き物である。動物を殺してはいけないが、植物は殺してもいいという根拠はどこのあるのかと。
 先日、あるフランス人と話していたら、壱岐の漁民がイルカを殺すことをどう思うかと聞かれた。ハワイの動物愛護団体のリーダーが、捕獲されたイルカを囲っていた網を切断して、沢山のイルカを逃がした事件の直後だったのである。
 「無目的にイルカを殺すことには勿論反対だが、漁民にとっては死活問題だ。彼らは魚をとって生活している。あなたの国でも牛や豚を殺して食べるだろう」とあたりさわりのない答えをすると、「もしイルカが魚を食べてしまったら、政府が漁民に援助をしたらいいんだ。台風や地震の災害の時のようにね。他の国で牛を殺すからといって、イルカを殺すことが正当化されるわけではない」と、彼はイルカを殺したのはぼくだと言わんばかりに、物凄い剣幕でまくしたてた。普段は、ぼく自身、イルカを殺すことに対してそれほど快く思ってはいなくても、こう頭ごなしにやられると、漁民の味方をしたくなる。
 「しかし、世界のどこの国に、野菜にたかる虫を殺さない農民がいるだろうか。その虫を駆除することができるのに、何もしないで野菜が全滅したからといって、どこの国の政府が農民に経済的援助を与えるだろうか」
 こう言うと彼は黙ってしまった。勿論、虫とイルカとは違うとか、イルカは保護されなければやがて絶滅してしまうだろうという議論もありうる。しかし、ただ「イルカを殺すのはかわいそう」と夜襲をかけて網を切ったところで何の解決にもならない。
 現在、壱岐では超音波によってイルカを追い払う実験が行われているとのことだ。心から成功を祈る。

32. 鴉啼いて私も一人(1980年5月9日)

   鴉啼いて私も一人

 この句は大正15年に、荻原井泉水の雑誌『層雲』に発表された種田山頭火の句で、彼が死ぬ前に編んだ唯一の自選句集「草木塔」にも取り上げられている。
 この句の前書き、「放哉居士の作に和して」と書かれている。尾崎放哉と山頭火は、互いに会ったことはなかったが、『層雲』を通して、互いの句に惹かれていた。前記の句は、放哉の「咳をしても一人」という句に応えたものである。
 どちらの句も、単なる淋しさを超えた人間存在の究極的な孤独感を感じさせるが、どちらかと言えば、山頭火の鴉の句の方が好きである。
 山頭火は40過ぎてから出家得度し、曹洞宗の禅僧となり、墨染めの法衣を着て、日本全国を旅して歩いた。「鴉」というのは、夕暮れの空を、ねぐらを目指して飛んで行く、あるいは寒々とした野原に生えている枯れ木にとまっている一羽の鴉であり、また彼自身のことでもある。啼いているのは鴉ばかりではなく、彼もまた泣いている。
 彼は何かに憑かれたように歩き、俳句を書いた。鴉の句が多い。

   鴉啼いたとて誰も来てはくれない
   また鴉がなく旅人われに
   鴉もだまって一羽でとんだ
   鴉さわぐそこは墓地
   啼いて鴉の、飛んで鴉の、かへるところがない

 これらの句を読むと、山頭火のみならず、人は誰も「鴉」であり、独りなのだと思う。年を取るにつれてその思いがつのる。家族や友だちと共にいながらも、「鴉啼いて私も一人」というこの句が実感できる。
 考えてみれば、この人生において、実に多くの人々に出会い、そして別れてきた。いろんな人たちのお世話になってきた。どこにいるのか分からない友も多い。「袖ふれあうも他生の縁」という。またいつかめぐり会うことができるだろうか。山頭火の鴉の句をもうひとつ。

   鴉とんでゆく水をわたらう


33. 子供の頃よく縁側に出て、雨だれが落ちるのを見ていた(1980年6月6日)
 そろそろまた梅雨の季節になる。多くの人たちが嫌がるほどにぼくはこの季節が嫌いではない。
 子供の頃よく縁側に出て、屋根から雨だれが落ちるのを見ていたものだ。一定のリズムを持っている雨だれが、時には全く思いがけない動きをすることがある。雨だれが地面を打ち、いろんな方向に飛び散るのを見ているとあきることがなかった。今でも、雨が降って静かな気持ちになる時は、もう跡かたもないけれ、7歳まで住んでいた大きな古い茅葺の家を思い出す。
 小学生の頃、朝登校する時は晴れていたのに、急に雨になったりすると、童謡の「雨降り」さながらに、もんぺをはいた母が、番傘と黒いゴムの長靴を持って迎えに来てくれたものだ。学校が終わるとみんな下駄箱の所で迎えの来るのを待っている。母親たちが傘を持って迎えに来るのである。時には、母に用事があったのか、なかなか迎えに来ないこともあった。友だちがみんな帰ってしまい、一人で待っているのは心細いものだった。そんな時、校庭の遠くの方にこっちにむかってくる母の姿を認めた時は嬉しかった。
 新しい番傘を開く時の気持ちはなんとも言えなかった。鼻をつく油紙の匂いがとても好きだった。そして新しい傘を打つ雨の音も好きだった。石油製品が出はじめると、ナイロン製の雨ガッパや黒い洋傘を誰もが持つようになり、そのうちに折りたたみ式のコウモリが主流になった。
 ぼくは昭和20年に生まれ、戦後の貧しい時代に育った。今まわりを見まわす時、その豊かさに驚かされる。衣食住すべてにおいて、目を見張るばかりである。雨が降っても雨だれはコンクリートの上に落ち、サッシの窓はその音を部屋の中までは伝えない。母親たちは、雨が降っても子供たちを迎えに行く必要はない。学校に備え付けのコウモリがある。あるいは多分、車でシューと迎えに行くのかもしれない。
 豊かになった。それは悪いことではない。しかし、確実に何かを失ってしまった。

34. ここらで人生に対して攻勢に出ようか(1980年7月4日)
 去年の冬に、『奇蹟のランニング』という本を読んで走り始めた時は、三日坊主になることだけは避けようと頑張ったのだが、6日しか続かなかった。
 最近また走り始め、今度はもう2か月も続いている。この前続かなかったのは距離が短すぎたのである。1.8キロしかなかった。一番苦しい時にやめていたのである。
 今は鴨川の堤防を10キロから12キロ、週に4日は走っている。最初の10分から20分が一番苦しい。足や膝が痛むし、息切れもひどい。この時に走るのをやめれば、走る楽しみを味わうことなんてできっこない。長続きしなかったはずである。
 この苦しい時期を過ぎると、痛みも嘘のように消え、呼吸も安定してくる。そして30分を過ぎる頃から身体がとても軽くなる。時には宙に浮いているゆな気持ちになりこのまま永遠に走りつづけることができるのではないかと思うこともある。
 夜走ることもある。夜の鴨川の堤防にはいろんな人がいる。一番多いのは若い男女で、電線に止まっている鳥さながらに、等間隔にすわり、キスをしたり、抱き合ったりしている。橋の下で詩吟を唸っているおばさん、ギターの練習をしている学生、犬を連れて散歩しているおじさん、様々な人がいる。
 人間はある瞬間にひとつの場所にしか存在することができないが、走っていると、時には時間の感覚がなくなって、同時にいくつもの場所にいるような錯覚に陥ることがある。走っている時に出会う何人もの人たちの営みを、すべて同時に見ているような気になる時がある。それは、すべてをOKと肯定できるような、とても愉快な気持ちである。
 年を取るにつれて自分の限界が見えてきて、空しい気持ちになることが多いが、走ることは最近ぼくが見つけた最大の喜びのひとつである。今はうたうことよりも走ることの方が楽しい。何かがおこるのを待ってばかりいても何も始まらない。ここらで人生に対して攻勢に出ようか。

35. 夏よ、淋しさと満たされぬあこがれに満ちた夏よ!(1980年8月8日)
 夏になると京都は急に淋しくなる。学生が帰省してしまうからである。百万遍などひっそりとしている。河原町もなんとなく活気がない。
 以前サンタバーバラに住んでいた時も、夏休みになると学生がいなくなり、キャンパスの近くの学生街アイラヴィスタがゴーストタウンのようになってしまった。そんなところにしばらくいると、妙に人恋しくなったものである。
 「どの季節が好きか」と尋ねると、「夏」と答える人がいる。ギラギラと照りつける太陽の下で、真黒に日焼けして飛び回るのが最高だという。わからないことはないが、夏はぼくにとっては淋しい季節である。
 学生時代、夏休みといえば、アルバイトのためにあるものと思っていた。海だ山だと遊び回る友人を横目に、汗を流して働いたものだ。夏というのは残酷な季節で、お金のある者と貧しい者のとの差がはっきりあらわれる。冬の寒さは誰にも一様に寒い。しかし夏の暑さは貧しい者には耐えがたいが、お金のある者には喜びとなる。
 夏よ、淋しさと満たされぬあこがれに満ちた夏よ!おもえはまるでアグネス・ラムのおっぱいか、松阪慶子のふともものようにぼくの前を横切る。手を伸ばしても決して触れることはできない。
 夏が楽しかった時代もある。小学生の頃だ。信州の田舎では都会のように夏休みは長くない。それでも夏休みはまるで永遠に続くのではないかと思われたものだ。朝の涼しいうちに手短に宿題をして(あまり守られていたとは思えないが、午前中は友達を誘いに行かないという申し合わせがあったような気がする)、午後は川で泳いだり、蝉を取ったり、鰍(かじか)を取りに行ったりした。時には町内対抗の少年野球大会があった。いつも暗くなるまで外で遊んでいた。いかなる悩みもなかった。
 9月になると学生が戻り始め、京都の町も活気を取り戻す。そしてすぐに美しい秋がやって来る。


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