Hisashi Miura Early Essays Part 6 (1979-1980年)

26. 今、翔ぶには少々重すぎる
27. カリフォルニアの人たちは、
   自分の好きなことをなんの気負いもなくやっているようだ
28. お母さん、泣くのはよして下さい
29. 彼らは煙のように消えて行く、この歌のように消えて行く
30. ぼくの国が金メダルを取りすぎて恥ずかしい
三浦 久

アルバイトニュースより


26. 今、翔ぶには少々重すぎる (1979年9月27日)
 京都へ来てからこの九月でちょうど十年たった。振り返ってみれば、実に様々なことがあった。ひとつひとつ書くわけにはいかないが、ひとつだけ言えることは、十年前ぼくはとても軽くて自由だったということだ。今、翔ぶには少々重すぎる。
 大きな理由があって京都へ来たわけではない。三年間のカリフォルニアでの生活に終止符を打ち、サンフランシスコから船で日本に向かった。途中、ロサンジェルスとハワイに寄った。どの港でも水はきれいだった。特にハワイでは海底が見えるほど澄んでいた。横浜の港に近づくにつれて、悪臭が鼻をつきはじめ、どす黒い海面には異物が浮いていた。横浜の町は、車があふれ,空気は汚れ,生気の無い無表情な顔がひしめきあっていた。その時、前から心に抱いていた京都へ行こうという思いが決定的になった。
 京都へ行けばまだ「日本」があるに違いない。「西洋の理想は生活の手段の追求であり、東洋の理想は人生の目的の追求である」と言ったのは、岡倉覚三だが、京都へ行けば「東洋の理想」があるに違いない。ナイーブだったかもしれないが、確かにそう思った。
 リュックサックに生活必需品と、数冊の本をつめ込み,夜行列車に乗って早朝の京都に着いた。
 その時から十年がたった。京都にも探していたものはなかった。それどころか,知らず知らずのうちに,忙しい毎日の生活に流され、人生の目的よりも,生活の手段を求めはじめていた。ナイーブな理想主義者からシニカルな現実主義者になってしまっていた。時代は60年代から70年代になり、80年代をむかえようとしている。時代は変わると人は言う。しかし変わったのは時代ではなくぼく自身だったのだ。
 69年の9月10日,早朝京都駅に着き、がら空きの市電にのり、河原町を北へむかったあの時のことを思い出さなければならない。そして精神的に,物質的にためこんでしまったものを、ひとつひとつ捨てていかねばならない。もう少し軽くならねば、どこへも行けないだろう。

27. カリフォルニアの人たちは、
  自分の好きなことをなんの気負いもなくやっているようだ
(1979年10月18日)
 今年の夏、カリフォルニアに一か月近く滞在したのだが、三つのことがぼくを驚かせた。
 一つ目。サンタバーバラに到着した次の日、大学の近くにあるアイラヴィスタの町へ散歩に出かけた。マーケットの横の空き地で男女が肩に手をやりすわっていた。男の方はほとんど丸坊主に近い頭をしている。よく見たら、男と思ったのは女で、胸が形よくふくらんでいた。彼女(彼?)は、ぼくが一瞬ギョッとしたのを見て,ニコッと笑った。
 二つ目。去年知り合ったテリーという女の子に会った。彼女は大学で事務の仕事をしていた。彼女はサンタバーバラの町に大きな一軒家を借りて住んでいる。二人のルームメートがいる。二人とも男性である。家賃は三分の一づつ均等に払っている。性的にいろいろ難しいことがないかと尋ねると、返ってきた彼女の答えがよかった。
 「私には他に恋人がいるのよ。三人で生活しているのは、それが一番都合がいいから」
 三つ目。昔からの友人、スティーヴに会った。話題が、最近カリフォルニアで流行っている日本の昔の風呂桶を大きくしたようなスパーというものに及んだ。一家にひとつというわけにはいかないが、かなり普及している。水着を着て入ることもあるらしいが、ほとんどは裸で複数の男女が一緒に入る。昔アメリカ人は、日本人が混浴するのを見て、野蛮だと決めつけたものだ。恥ずかしくないかとスティ−ヴにきいてみた。彼いわく、
 「自分の肉体に対して恥ずかしく思う必要は全然ない。恥ずかしいと思うほうがおかしい」
 なるほど、なるほど。
 以上三つのことに対して肯定的にとるか、否定的にとるかは各自の自由であるが、ぼくは正直なところ、羨望に近いものを感じた。彼らは実にふっきれている。60年代に若者たちが、フリーセックスについて云々した頃は、気負いが感じられたものだ。
 当時、 Do your thing! (自分のしたいことをやれ)という言葉をよく耳にしたが、今のカリフォルニアの人たちは(若者ばかりでなく、中年のおじさん、おばさんも)、自分の好きなことを、なんの気負いもなくやっているようだ。人生一回きりだ。Do your thing!

28. お母さん、泣くのはよして下さい (1979年11月1日)
 就職試験のシーズンだ。毎年,今頃になると、伸ばしていた髪を切り、髯をそり、ジーンズからスーツに衣更えした若者を見るようになる。
 就職と言うのは一生の問題である。会社を変わることが能力の評価につながるアメリカと違い、日本では一度就職したら、停年退職まで同じ会社にいることになる。自分の一生は就職する時点でほぼ計算できる。だから多くの若者が就職をひかえて、臆病になり、慎重になるのは無理もない。
 自分に合った仕事を見つけ、就職することは重要なことである。また何の目的もなく、だらだらと留年を続けるよりも、思いきって就職した方が新しい世界がひらけてくる可能性がある。
 しかし、就職だけがすべてではない。就職を目前にひかえると、就職できなければ全世界が閉じられてしまうような気になるものだ。
 最近、二通の手紙をもらった。ひとつはアメリカで大学に行っている日本人の学生からで、彼の父親が、日本の就職状況がよくなっているので帰ってきて就職しろ、と言ってきたがどうしたらいいだろうかというものであった。もうひとつは、就職をひかえた4回生からで、卒業したらアメリカへ留学したいが、アメリカから帰ってきても日本の企業へ就職できないのではないか、また、親は留学に反対し、就職することを希望している、という内容だった。
 ぼくは両者に返事を書いた。自分が本当にしたいことをやるべきだと。気になることは、二人とも、親が出てきていることだ。勿論、それぞれの家庭の事情があるから、一般的なことは言えないが、彼ら二人について言えば、彼らは自分のやりたいことがやれる立場にいる。彼らは共にはっきりした目的がある。アメリカから帰ってきて就職がなくてもいいではないか。いや、そんなことは心配しない方がいい。まずは、自分の実力を高めることだ。結果のことは気にしない方がいい。
 詩人、尼崎安四(あまさき・やすし)の詩の一節、

   あゝ、お母さん、泣くのはよして下さい
   私の心は非常に静かなのです
   少しは生きる姿がぶざまであっても
   あなたの子供は今、狐のように幸福なんですよ 
   だからお母さん、泣くのはほんとうによして下さい

29. 彼らは煙のように消えて行く、この歌のように消えて行く (1979年11月22日)
 レナード・コーエンの八枚目のアルバム『最近の唄』が発売された。七枚目のアルバム『ある女たらしの死』は新しい試みではあったが、フィル・スペクターとの協同作業はあまりうまく行かず、コーエンの詩とスペクターの目指す音楽が噛合っていなかった。『最近の唄』で昔の彼に戻った。
 彼は詩人として世に出、次に小説を書いた。シンガーとして登場するのが一番おそかった。しかし彼が詩、小説、歌を通して追求してきたテーマはひとつである。一言で言えば、神秘主義体験の探求であると言えるだろう。神秘主義という言葉は、誤解されがちであるが、簡単に言えば、「神」あるいは、超越的存在との合一の体験にもとずいた宗教の一形態である。宗教の本質と言ってもいいかもしれない。
 コーエンの神秘主義に顕著なことはセックスを通しての「神」との合一願望である。1963年に発表された最初の小説『フェイヴァリット・ゲーム』で、彼は次のように述べている。
 「女がぼくと同時に到達したオルガスムスによって変形するのを見る時、ぼくは我々が出会ったということを知る。その他のものはすべて虚構だ」
 彼の今までのアルバムでも繰り返しこの立場が歌われてきた。しかし、『最近の唄』のB面の最後の曲『逃げた雌馬のバラード』において彼はこの立場を超えた。
 この歌は禅の十牛図に影響されたものだが、牛を雌馬に変えることによって、彼は禅の見性体験に性的なニュアンスを加えている。牧童が逃げた雌馬を探しに行く。そして多くの苦労の後、ようやく見つける。しかし雌馬はまだ慣らされていない。そこでサド・マゾを思わせる場面になる。

   苦痛を与える時だ
   鞭を使う時だ
   雌馬は炎の中を行くか
   彼は一発打ちこめるか

 そこから両者は完全な合一へと進む。

   彼らは一体になり
   草原にむけて進む
   もう鞭の必要はない
   手綱の必要はない

 しかし、この歌はここで終わっていない。さらに合一そのものへの執着を超えようとする。最後の二行は比類のない美しさだ。

   彼らは煙のように消えて行く
   この歌のように消えて行く

 このアルバムの歌詞カードの最後で、彼は母親の死にそっとふれている。このアルバムは彼の友人アーヴィング・レイトンに捧げられているが、彼の母親へのレクイエムであるように思えて仕方がない。

30. ぼくの国が金メダルを取りすぎて恥ずかしい (1980年1月24日)
 今年はモスクワでオリンピックが開催される年だが、最近のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカをはじめいくつかの国がボイコットするかもしれないという不穏な雰囲気になってきた。もし金メダル獲得数で常に一、二を争っているアメリカがボイコットでもすれば、オリンピックそのものの価値が低くなって、開催国のソ連の面子は丸つぶれだろう。カーター大統領もそこらへんのとこをねらっての駆け引きだろう。
 アメリカのオリンピック選手たちの、このことに対する意見が新聞に載っていたが、ある人は、今まで厳しい練習をやってきたのだから、是非出場したいと言い、ある人は、もしボイコットすることが政府の決定ならば、それに従うつもりだと述べていた。
 一般の人々の気持ちは、この前者の意見に近いのではないだろうか。例えば、もし日本がボイコットをすることにでもなれば、大方の人々は、何年もの間、苦しい練習をしてきた選手たちに同情し、スポーツと政治を混同すべきでないと言うだろう。
 しかしよく考えて見ると、国の威信をかけて、金メダルの数を競うようなオリンピックは、ある意味では政治と離れてはいない。いや、政治の一部であるといても言い過ぎではないだろう。だからこそ、ボイコットが政治的策略として有効に働くのだ。
 十二年前のメキシコ・オリンピックの時、ぼくはカリフォルニアに住んでいた。ある時友人のスチュアートと一緒に実況をテレビで見ていた。次々と星条旗が上がり、アメリカ国家が演奏された。それを見てスチュアートがつぶやいた。

 「ぼくの国が金メダルを取り過ぎて恥ずかしい」
 この言葉を聞いてぼくは一瞬ビクッとした。日本選手の活躍に一喜一憂していたのだ。自分の国の選手の活躍を喜ぶというのは当然と言えば当然だが、勝つことだけを目的にし、そのために何十億という莫大なお金をかけ、時にはクスリで筋力をつけたりするようなことが行われてくると、オリンピックとは一体何のためなのかと疑問を持たざるを得ない。
 しかし、今のところは恥ずかしくなるほど、日本の選手が金メダルを取る心配はなさそうである。


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