Hisashi Miura Early Essays Part 2 (1978年)

6. あたり一面は、黄金色に輝く銀杏の葉の絨毯だった
7. 彼は黄金の目と黄金の耳を持っている
8. 山頭火
9. 休息の時でもなお愛する遠方への途上にあること
10. なんてこの世界はさまざまな美しい色でおおわれていることだろう
三浦 久

アルバイトニュースより


6. あたり一面は、黄金色に輝く銀杏の葉の絨毯だった (1978年9月16日)
 時々活字に飢えることがある。そんな時は古本屋へ行って、安くて読みやすそうな文庫本を何10冊も買ってきて、手当たり次第に1週間ぐらい読み続けることがある。
 8月の終わりにそんな状態になった。本棚には読んでない本がまだ沢山あるのだが、なぜか読む気にならない。やはり古本屋へ出かけて行くことになる。買ってきた本の中に、湯川秀樹さんの自伝『旅人』があって、彼が若い頃に書いたフランス語の作文の話が出ていた。その作文の中に御所の銀杏の木のところがあった。
私の家は御所に近いので、その中を散歩することが多い。秋が一番良い。御苑内 の年ふる木立の間の路に散りしく落葉が、げたの下でさくさくとかすかに鳴る。・・・広場のそばの芝生には二本のいちょうの木がそびえている。秋になると黄色い落葉がそのあたりを一面におおう。
 ここを読んだ時、ああ、あの銀杏の木に違いないと思った。
 京都へ来た次の年の秋、ぼくは御所の銀杏の木の下に腰をおろしていた。あたり一面は、黄金色に輝く銀杏の絨毯だった。風が吹くと、銀杏の葉がひらひらと落ちてきて、時々、かたわらに置いておいたギターの弦に触れるのである。そうすると、ポロン、ポロンとかすかな、なんともいえない音を出した。

 八木重吉の詩「素朴な琴」の世界そのものであった。
この明るさの中へ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね
琴は静かに鳴りいだすだろう
 夏が暑かったから、今年の秋は美しいだろう。秋になったら、久しぶりに、あの銀杏の木を見に、御所へ行こうと思っている。

7. 彼は黄金の目と黄金の耳を持っている (1978年10月1日)
 人の出会いというものは不思議なもので、毎日毎日顔を合わせながらも、表面的なつきあいで終わる人もいれば、初対面の時からなんとなく親しみを感じて、2,3度会ううちに旧知の間柄のように感じる人もいる。
 ドン・エンブレンには去年の8月初めて会った。彼はカリフォルニア州サンタローザのシティ・カレッジの英文学の先生であり、詩人である。年齢は60歳ぐらい。彼は彼の編集している詩の雑誌の特集号を作るために、日本の詩人の詩を集めに来日した。ぼくが、4,5年前に英訳した山頭火の俳句がたまたま彼の目に入り、彼に会うことになったのである。
 彼は今年の8月帰国するまで、京都の岩倉に住んでいた。学校を出てからは、なかなか友人と呼ぶことのできるような人との出会いは少なくなったのだが、彼とは随分親しくなった。年齢の差も、人種の違いも感じなかった。それは彼の精神の若さゆえだろう。
 彼は実に好奇心が旺盛だった。日常のどんな些細なことにも興味を持った。いつもノートを持ち歩き、頻繁にメモを取っていた。また、納豆でも塩辛でもなんでも食べた。
 彼から学んだことは多いが、中でも「仕事」については教えられた。彼はいつも仕事をしていた。訪ねて行くと、必ずタイプライターにむかっていた。ひとつの仕事を終えると、すぐに次の仕事をはじめた。怠惰なぼくにとっては驚きだった。
 ある日、「なぜそんなにいつも仕事ばかりするのか」ときくと、「仕事と遊びは区別ができない。私にとって仕事は遊びのようなものだ」という意味の返事が返ってきた。
 彼に初めて会ったぼくの友人のひとりが、「彼は黄金の目と、黄金の耳を持っている。あの目を見ただけで、彼を信用できる」と言った。ぼくはドン・エンブレンの他に、黄金の目を持った男を3人知っている。宮澤賢治とボブ・ディランと、そしてぼくの友人ジム・グリーンである。

8. 山頭火 (1978年10月16日)
 先日、久し振りに大山澄太著『俳人山頭火の生涯』を読みなおしてみると、以前には気がつかなかったひとつの句が印象に残った。
あぶらむしおまえのひげものびている
 どうしてこの句が印象に残ったか考えてみた。多分、今年の夏は暑くて、あぶらむしが沢山出たので、スリッパや丸めた新聞紙を持って家中追い回したことが多かったからではなかろうか。
 7,8年前、ぼくは山頭火に憧れて、いろんなところを旅して歩いた。しかし家に帰ってきた時はいつも、ぼくは山頭火になれないなと思った。ぼくのまねごとのような旅には帰るところがあったが、山頭火の旅には終わりがなかった。
 このあぶらむしの句は、彼が山口県小郡の其中庵に住んでいた時の作である。あぶらむしほど嫌われている虫は他にないだろう。しかし山頭火は自らの境涯をあぶらむしに投影し、あぶらむしの孤独を自らの孤独としている。そこには自嘲的な諦めと共に、山頭火の優しさが込められている。
 山頭火は、本名を種田正一といい、明治15年に、山口県の防府に生まれた。父は裕福な地主で、善良な人だったが、女ぐせがわるく、妾を何人も持っているような人だったらしい。山頭火が11歳の時に、母が家の井戸に投身して自殺した。このことが山頭火の生涯を決定したと言ってもいい。
 彼は後年、早稲田を神経衰弱で中退し、父と二人で酒造業をはじめたがうまく行かず、父は妾を連れて夜逃げをし、山頭火は俳句仲間を頼って熊本へ落ちて行った。
 熊本の報恩寺という曹洞宗の寺で出家した時、彼は44歳になっていた。そして翌年の大正15年から、昭和15年に死ぬまで、日本全国を旅して歩き、沢山の俳句を書いたのである。
 ぼくは俳句というものがよくわからないが、山頭火と彼の俳句には無条件に惹かれる。

9. 休息の時でもなお愛する遠方への途上にあること (1978年11月1日)
 「秋風が吹きはじめると、風狂の心、片雲の思いが起こってくる」と山頭火は日記に記している。日本列島に秋が来て、本当に美しい季節になった。旅に出たいと思う。
 若い時は、旅に出ようと思い立ったらすぐリュックに必要なものをつめこみ、寝袋をまるめ、まさに片雲の風にさそわれて、旅に出たものだった。お金はなかったが、時間はたっぷりあった。ヒッチハイクと野宿を重ねてさまよい歩いたものだ。
 今はもう野宿をするだけの体力がないし、悲しいかな時間がない。日常の雑事に追われて、突然ぶらりと旅に出るなんていうことはできなくなってしまった。
 旅というのは一人旅に限る。それも徒歩かヒッチハイクの旅ならなおいい。旅に出てもっともスリリングな感情は、自分がこの広い世界で実に独りであるという感情である。また、日常の習慣的な生活においては。毎日同じ事の繰り返しなのに、旅にあっては、一瞬一瞬が創造の瞬間であり、今まで当然と思っていたものまで新しい意味を持って迫ってくる。旅の途上では人は、一瞬一瞬自らの主人公でなければならない。だから旅に出ると1日が実に長い。
 団体旅行はこうはいかない。団体旅行というものは日常生活をスーツケースにつめて日常以上に日常的な生活に出会いに行くのである。団体旅行はひとつの小さな社会がバスや汽車に乗って移動するのである。どんなに遠くへ行ったとしても、そこには漂泊の感情はありえない。
 もう一度ぼくは、ヘルマン・ヘッセが「旅する術」という詩で歌ったように、旅の仕方を学ばねばならない。もう一度目的も何もないさすらいの旅に出たい。
 「旅する術」の最後の部分。
旅する術はすなわちこうだ
世界の輪舞に加わって共に身を隠し
休息の時でもなお
愛する遠方への途上にあること  

10. なんてこの世界はさまざまな美しい色でおおわれていることだろう (1978年11月16日)
 信州へ行ってきた。紅葉のさかりで実に見事なものだった。秋の信州を見たのは10 数年振りである。真っ青な空。実をいっぱいつけた柿やりんごの木。黄色い唐松や紅いもみじの山なみ。これほどに信州の秋があざやかだとは思わなかった。
 実はぼくは18の時まで信州で育ち、もの心ついてから少なくとも10回以上信州の秋を見たはずなのに、ぼくの記憶にある信州は白黒の世界である。季節のないカリフォルニアに数年住んだ後、京都に来て京都の秋を見てこんなに美しい秋があるのかと驚いたくらいである。
 ふたつのことが考えられる。ひとつは、人間がまわりの自然を客観的に眺めて感動できるのはある年齢を超えてからではないかということだ。子供の頃は人間は自然の一部のようなものであり、何かを見て美しいと思っても、次の瞬間にはまた次のことに没頭している。
 もうひとつは、もともと人間の記憶には色彩がないのかもしれないということだ。色のついた夢を見るのが少ないように、昔のことを思いだそうとしても、色彩があざやかにはよみがえってこない。
 とにかく子供の頃の信州の思い出は白黒である。そこには貧しさと、少しの寂寥感が漂っている。なんとなく物悲しい風景である。まるで墨絵の世界だ。
 まさに墨絵のように、ぼくの記憶の中の信州はおぼろげであり、おおまかな輪郭しかわからない。なにも描かれていないスペースが沢山ある。しかし、そこには不思議とリアリティがある。カラーより白黒の映画の方がなんとなく本物に近いような気がするものだ。
 ひるがえって記憶の世界から現実へ目をやってみると、なんてこの世界はさまざまな美しい色でおおわれていることだろう。毎日の生活の中ではそれほど色というものに感動することは少ないのだが、すべてが実に美しい。青や緑や黄色や赤や、どのようなすぐれた画家でもそれを絵の具で表現することはできないだろう。いくら技術が発達しても、写真でもテレビでも本物の色を出すことはできないだろう。信州の秋を歩いてそんなことを感じた。


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