Hisashi Miura Early Essays Part 1 (1978年)

1. 70年代は60年代の傷が癒やされている時代なんだ
2. 「自己を見つめなおしたい」という若者が増えている
3. 二人が分かち合うことができたものに感謝しようではないか
4. 彼らの父親は明日埋められるんです
5. 月並みではあるが日本はいいなあと感じている
三浦 久

アルバイトニュースより


1. 70年代は60年代の傷が癒やされている時代なんだ (1978年7月1日)
 去年の夏、8年振りに、カリフォルニアを訪れた。
 1966年から69年までの3年間を、ぼくはサンタバーバラで過ごした。分かっていて行ったわけではないが、その時代は確かに面白い時代だった。アメリカが大きく変化する時代だった。
 若者たちの多くは、ヴェトナム戦争と面と立ち向かわざるをえなかった。戦争に行くか、行くことを拒否して監獄へ行くか、国外へ逃亡するかそのどれかしかなかった。ある者は精神異常者を演じたり、ある者は断食をして骨と皮ばかりになり徴兵検査ではねられようとした。
 このような状況の中で、彼らは生きるとは一体何か、真実とは、愛とは何か、というような根元的な問を自らに問いはじめた。その問に対するひとつの答を彼らはクリシュナムールティの「自らが変わらなければ、社会は変わらない」という言葉の中に見いだした。
 キャンパスは髪の毛の長い、髭もじゃらの若者であふれていた。ブラックパワー、イエローパワー、ブラウンパワー等のマイノリティ・グループの運動ももりあがっていた。若者たちのやろうとしていたことが何であれ、大きなパワーがあったことは確かだ。そして、それらの運動は、社会にも大きな影響を与えた。
 去年、再びサンタバーバラを訪れた時、あの60年代の後半の興奮はどこにもなかった。キャンパスは静まりかえり、サンフランシスコやロサンゼルスは荒廃した大都会という印象しか与えなかった。たまにヒッピー風の若者の一群に出会っても、存在感を感じなかった。アメリカ全体が疲れているようだった。しかしボブ・ディランの次の言葉を信じたい。
70年代は60年代の傷を癒やしている時代なんだ。80年代になれば、
何かやろうと している連中は、その切り札を見せはじめるだろう。

マハリシ

2. 「自己を見つめなおしたい」という若者が増えている (1978年7月16日)
 最近、ヨガとか坐禅に関心を持っている若者が増えている。京都の真ん中、三条河原町のビルの5階に瞑想センターなるものがあって、ここも結構はやっているようだ。
 これらの若者にインタビューする機会があって、「動機は?」と尋ねると、ほとんどの人たちが「自己を見つめなおしたいから」と答えた。
 アメリカでは60年代の後半に、若者たちの間で、「宗教」が大流行した。彼らの多くは、物質的な繁栄のみでは、人は満足できないということを経験から知ったのだ。
 もし人生の目的が、クーラーのきいた部屋で、柔らかいソファに腰かけ、クッキーを食べながらTVを見ることならば、彼らの両親は人生の目的を手に入れたと言ってよいだろう。しかし実際には、子供の頃から彼らは親たちがそれほど幸せではないということを見ながら育ってきたのだ。経済的な繁栄と共に、アメリカの家庭や社会は混乱しはじめ、ヴェトナム戦争がさらに拍車をかけた。
 このような状況の中で、ある者は政治にかかわり、ある者は「宗教」に惹かれていった。特に東洋の宗教、中でも、実際に自分で行(ぎょう)をやる禅やヨガやビートルズの師だったマハリシのトランセンデンタル・メディテーション等に人気があった。これは一時的な現象かと思われたが、そうではなく、数の上で少々減少したけれども、今もなお続いているようである。
 70年代後半の日本における、ヨガや瞑想への関心も、その背後に急速な経済的繁栄と、それにともなう家庭、社会の混乱、人間疎外等があるといえるだろう。物質的には豊かになったが、多くの若者は全く生きる方向を見失っているようだ。
 「宗教」が盛んな時代は裏返せば不幸な時代である。しかし、「自己を見つめなおしたい」若者が増えていることは嬉しいことである。流行で終わってほしくない。

ストリート・リーガル

3. 二人が分かち合うことができたものに感謝しようではないか(1978年8月1日)
 7月21日に出たディランの新しいアルバム『ストリート・リーガル』は実に素敵なレコードだ。この前に出た『欲望』を聞いた時、これ以上のものを出すのはディランでも少々しんどいかなと思っていたが、さすがディランである。こともなげに前作に勝るとも劣らないアルバムを出した。
 ストリート・リーガルという意味は聞くところによると、レース用のオートバイを普通の道路(ストリート)で運転できるように改造したものという意味らしい。暗い部屋から階段を下りてきて、道路に出ようとして、右に行こうか、左に行こうか思案しているアルバムジャケットのディランの写真が何かを示唆している。
 別れた奥さんのために書かれた歌が多い。中でも「もう一度話し合おう」という歌がいい。
もう一度話し合おう
二人がもう少し正気になったら
と歌った後で、
この状況は悪くなるばかりだ
不必要に苦しむことはない
もうやめにして、二人が駄目になる前に
それぞれの道を行こう
と続ける。そして最後の方で、智恵の言葉と言って言い過ぎではない素晴らしい言葉がくる。
二人が決して持つことのなかたことに対して幻想を抱くのではなく
二人が分かち合うことができたものに感謝しようではないか
 男と女が出会い、好きになり、同じ体験を共有しても、多くの場合、最後には別れがある。出会った頃は、お互いに新鮮だし、ありのままの相手を見るというよりも、自分の心の中の幻想を相手に投影しがちである。そして徐々に熱が冷めてくると、こんなはずではなかったとか、あなたはあの時こう言ったとか、おまえはもっと素直だったとかいうことになる。好ましかった笑い方までが鼻についてくる。そして別れに際しては、多くの涙、怒り、恨みがある。
 それは仕方のない事だ。しかし、この無限の空間と時間の中で、短い時間であったとしても、共通の体験を分かち合い、共に歩むことができたということは素晴らしいことではないか。
 別離の苦しみを現在味わっている人に、是非、ディランの『ストリート・リーガル』を聞いてみることをお勧めする。そこにはディランが愛する人との別離の体験を通して学んだ多くの智恵の言葉がちりばめられている。

4. 彼らの父親は明日埋められるんです(1978年8月16日)
 7月の終わりから、サンタバーバラにあるカリフォルニア大学に来ている。
 先日の夕方、キャンパスの近くの海辺を散歩していると、2歳になったばかりの息子の伸也が、プラスティックの赤い消防自動車を見つけた。しばらくそれで遊んでいると、可愛い双子の兄弟がやってきて、自分たちのだから返してくれと言う。伸也は消防自動車をしっかりつかんで、今にも泣き出しそうだ。
 事情を話し、「少しの間、貸してやってくれないか」と頼むと、二人は「オーケー」と言って、すぐ近くで、大きな声で笑いながら追いかけっこをして遊びはじめた。とても幸せそうだ。伸也は消防自動車に夢中だった。
 10メートルほど離れたところにすわっていた婦人が近づいてきて「私の孫たちです」と言った。そして突然彼らに聞こえないように声を低くして、ぼくの耳元にささやいた。
「彼らの父親は明日埋められるんです」
「えっ?」と聞き返すと、
「彼らの父親は明日埋められるんです」とくり返した。
「どうして亡くなったのですか」
「あまりにも悲劇的で話す気になれない」
「あなたの息子ですか、それとも、義理の息子ですか」
「私の息子です。彼らの母親はあまりにも動揺しているので、私が二人をみているのです。彼らは生まれてこない方がよかったかもしれない」
 言うべき言葉を探したが見つからない。しばらくの沈黙の後、
「彼らは自分たちで彼らの道を見つけるでしょう」としか言うことができなかった。
 夕陽が海に沈みはじめ、夕焼けが見事だった。彼女は孫たちに向かって叫んだ。
「ジョージ!ジミー!もう家に帰ろう」
 それを聞いて二人は伸也のほうへ歩いて行った。伸也は消防自動車にしがみついて泣き出した。すると彼らは何かを探しに行き、白いプラスティックの破片を持ってきて、「これと消防自動車と交換しよう」と言った。伸也はしぶしぶと交換した。それでもまだ泣き顔をしていると、彼らのひとりが言った。
「もう泣かないでね。近い内にぼくたちは日本に行くからね。そしたらまた会えるし、また貸してあげるよ」
 ぼくは彼らの親切と優しさに心打たれた。そして伸也にかわって「ありがとう」と言った。彼らは一緒に「どういたしまして」と言うと、おばあちゃんと家に帰って行った。
 彼らがたったの3歳だったということが今でも信じられない。彼らの優しさが彼らのこれからの人生を導いていってくれることを願う。

5. 月並みではあるが日本はいいなあと感じている (1978年9月1日)
 7月末から1か月ほどカリフォルニアへ行ってきた。実はまだ時差ボケがなおらず、夜中に目が覚めて困っている。
 滞在していたサンタバーバラはとても涼しいところで、気温は15度から25度ぐらいだ。朝晩は冷えてセーターを着た時もあったほどだ。
 物価は日本に比べて格段に安い。円高のせいもある。10年前サンタバーバラに住んでいた時は1ドル360円だったのが、今はおよそその半分である。しかしぼくにとっては1800円よりも10ドルの方が大金のような気がしてしまう。1800円で買えるものより10ドルで買えるもののほうが多いということもあるが、10年前1か月75ドルで生活したことがあるからである。
 涼しくて、物価が安くて結構だらけであるが、日本に戻った時、正直なところ、ホッとした。ひとつには緑が違う。カリフォルニアの緑は、乾いた黒っぽい緑である。日本の緑は千差万別、実に生き生きと鮮やかな緑である。それにカリフォルニアの空気は、雨が降らないから、どことなく透明感に欠ける。それに引きかえ、日本の空気は、都会といえども澄んでいる。特に雨上がりには。
 アメリカ人と結婚してサンタバーバラに6年間住んでいるという日本人の女性に会った。彼女は、「サンタバーバラは天国よ。でも長く住んでいるとあきるわね。日本なら。本屋で立ち読みし、友だちに偶然会い、喫茶店でお話しするなんてこともあるでしょう。でもここでは、友だちに会うためには、電話をかけて、何時何分にどこそこで会いましょうとアポイントメントをとらねばならないの」と言っていた。
 「甘えの構造」とか義理人情の世界とか、日本人の性格や人間関係についてよく言われるが、それがあるからいいのである。乾いた、契約ばかりの世界にはなじめない。
 というようなわけで、月並みではあるが、日本はいいなあと感じている次第である。蒸し暑いけれども、もう少ししたら美しい秋が来ると思えば、この暑さもまんざらではない。 


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