Hisashi Miura Miscellaneous Essays


ボリス・グレベンシコフ - 言葉の背後にある沈黙


ボリス・グレベンシコフの音楽と言葉を聴いて最も印象に残ったものは沈黙である。沈黙の余韻である。音楽的にはビートルズやスプリングスティーンや、あるいはレナード・コーエンまで聞こえてくるが、そのビートとリズムの背後に一貫して沈黙が流れている。

アルバムタイトル曲の「ラジオ・サイレンス」の中のラジオが何を意味しているかよくわからないが、グレベンシコフ自身その中で「ぼくは沈黙について/ 危険に満ちた空虚な野原の真ん中にある/ 隠れ場について語ることができる」と歌っている。沈黙への言及は、「ウインター」の中の「しかし重苦しい灰色の空は沈黙の中に消えて行く」や、「マザー」の中の「ぼくの中にはあなたの動きに身をひそめ/ 沈黙していたいと思っている部分がある」にも見られる。

しかし彼のアルバムを通して感じられる沈黙は、むしろそのような言葉からではなく、彼が描いて見せる景色から来ている。その景色は、墨絵の達人が、一気に描き上げた切れ味を持っている。例えば、「ザ・ウインド」の中には次のような3行がある。

   そしてぼくは聞く
   ぼくの背後で
   白鳥が音もなくすべって行く形を

うまく訳せないが、湖面を「白鳥が音もなくすべって行く形」とはまさに墨絵の世界であり、沈黙そのものである。あるいは、俳句の世界と言ってもいい。

このような表現は随所に見られるが、中でも、ロシア語で歌われている「チャイナ」という歌は、ふたつのヴァース、計8行からなる短いものであるが、その英訳から読み取れるイメージは極めて俳句的である。

   五重塔から下がっている黄色い陶器の鈴が鳴っている
   白い鳩が一列になって飛んでいる
   赤い絹の服を着た少女が無心に耳を澄ませている

この静けさ。沈黙。無駄な言葉はひとつもない。

グレベンシコフは「ソ連のボブ・ディラン、スプリングスティーン」と言われているらしいが、「ソ連のボブ・ディラン」はウラジミール・ヴィソツキーだろうし(ディランもヴィソツキーもそのような言われ方には当惑するだろうが)、「ソ連のスプリングスティーン」と言うには、この両者の言葉の使い方はあまりにも異なっている。グレベンシコフの簡潔で無駄のない象徴的文体に比べ、スプリングスティーンの表現方法は、機関銃で撃ちまくるような饒舌さに満ちている。

しかし、表現方法における違いにもかかわらず、この両者の歌の世界には共通したものがある。それは、束縛からの解放に対する強い願望である。スプリングスティーンの歌の主題は、周知の通りアメリカの夢の裏側に住むことを余儀なくされた若者たちであり、その世界から脱出する手段としての自動車である。また父親との葛藤、父親からの独立も彼が一貫して歌い続けている主題のひとつである。彼が歌う「束縛」はそれが経済不況であれ、ベトナム戦争であれ、父親であれ、現実的、具体的なものである。

一方、グレベンシコフの「束縛」はかなり象徴的、比喩的である。「そして今ぼくたちは有刺鉄線に引っ掛かった小鳥のようだ」(「ポストカード」)、「牢獄から出る道はひとつ/ おまえの看守を解放すること」(「ザ・タイム」)、「ただこの折れた翼の幻影/ それにカラスの痛々しい鳴き声」(「ザット・ヴォイス・アゲイン」)。書き出したら切りがないのでこの辺でやめるが、彼の歌はこのようなイメージに満ちている。

具体的であるか象徴的であるかの違いはあれ、スプリングスティーンとグレベンシコフは、束縛された存在であるという意識と、その束縛からの解放を歌うという点において共通するものがある。まさにそのことが、つまり束縛された存在であるということが、ニュージャージーであれ、レニングラードであれ、東京であれ、若者が、いや、人間が置かれている状況なのであり、だからこそ、その状況からの解放を歌う彼らの歌が多くの人々の共感を得ている理由であるように思われる。

いずれにしろ、グレベンシコフという人の音楽と言葉をはじめて耳にしたのだが、彼の作品の背後にある沈黙に圧倒された。アルバムの最後の歌「チャイナ」が終わった時にぼくの心に浮かんできたのは、なぜか芭蕉の、

   枯枝に鴉のとまりたるや秋の暮

であった。
[ボリス・グレベンシコフ『ラジオ・サイレンス』パンフレット、CBS/SONY RECORDS]
1989年8月

Boris Grebenshikov, Radio Silence, 25DP 5648 CBS/SONY


update 7 Jan, 2002



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