15年ぶりで三浦さんの歌声を聞いた時、風が優しく僕の頬を撫でていった。

山田博之

月刊 『Live Station』 Nov 1990


 15年ぶりで三浦さんの歌声を聞いた時、風が優しく僕の頬を撫でていった。三浦さんの部屋に山々からそっと吹き込んでくる秋の風だ。それは三浦さんの歌声と混ざり合って、僕をとても心地良くしてくれた。
 15年前、僕は京都の町で三浦さんの歌声と初めて出逢った。正直言って当時、僕は三浦さんの歌を、どのように聞いていいのかわからなかった。うまく理解できなかったと言ってもいい。その頃僕は、どちらかと言えばコマーシャルの世界にのっかったような曲や、ただ単に耳ざわりの良い曲ばかりを聞いていた。また自分でも、できればそういった歌を作ったり、歌ったりしたいと思っていた。
 それから何年か経った。時の経つのなんて本当にあっという間だ。象があくびをする様なものだ。以前、僕がいいと思った歌の数々は、時代の流れとともに、急速に色褪せていった。あるものは全く姿を消し、またあるものはカラオケの歌集にのる様になった。
 僕の音楽の好みも変化してきた。ボブ・ディランを聴き、ザ・バンドを聴き、ジャクソン・ブラウンを聴き、J.D. サウザーを聴いた。
 僕は、いつの頃からか三浦さんのステージを思い出していた。そうして豊田勇造さんとか、中山ラビさんのことなども。

 いつかもう一度機会があれば聞いてみたいとずっと思っていた。数年前、なにかの折りに、三浦さんもまたこの地方の短大の先生をされている事を耳にした。いつかひょっとして現実になるかもしれないなどと思った。
 その頃には、三浦さんが、我が国でも代表的な、ボブ・ディランの詩の翻訳家だということも知っていた。少しでも関係者がいれば「三浦さんは今……?」と質問していた。
 一週間程前、久しぶりにJ.D. サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」を聴きたくなって珍しくCDを買いに行った。家に戻って、ディスクに載せ、曲が流れ始めると同時に歌詩カードを眺めた。あっ!! と息をのんだ。その歌詞カードにはしっかり"対訳三浦久"とクレジットされていたのだ。
 僕は数日後、三浦さんの勤務先の学校に連絡をした。タウン誌としての取材を申し込んだのだ。取材内容を考えた。聞きたい事はたくさんあった。十分なテーマも設定した。しかし、何よりも僕は三浦さんの歌をもう一度聞きたくて出かけたのかもしれない。随分長くなってしまったが、そんないろんな思いを抱いて僕は三浦さんを訪ねたのだ。三浦さんは、今述べた、ボブ・ディランやJ.D. サウザーの他にも、ブルース・スプリングスティーン、レナード・コーエンといった、そうそうたるシンガーの歌の翻訳もされている。

 三浦さんは、1945年生まれ。辰野町の出身である。いわゆる戦後世代といわれる最初のランナーであり、まさしくその青春時代を、あの嵐の様な激動の時代の中で過された事になる。そして若者達が、自分達の生の歌を、自分自身の声で歌い始めようとしたそんな時代だ。自分達の手で本当の意味での自由をつかもうとしていた。歌う事が一つのプロテストを意味していた。そんな時代でもある。
 僕の世代は、そんな時代に少し乗り遅れた。僕は1955年生まれである。全ての事が終息に向かいかけていたか、あるいは完全に終っていた。(と感じられるのだ)
 そして、1970年後半頃から、世の中は急速に豊かさに向かい、町中に物があふれ、そして子供達にまで全てが与え尽くされる様な社会になっていく。一見、平和で自由な世の中に見える。だが、本当にそうなのだろうか。
 三浦さんはこう語る。
 「これだけ物質至上主義になると若者達の閉塞感は、かえって強いのではないだろうか。少し1950年代のアメリカの大繁栄の後と似ている様な気がするね。あまりにも心というものを忘れちゃった時代」

 また自由という事に関しても次の様に語る。
 「人間にとって、とにかく一番重要なものは、自由なんだね。自らの判断で、自らの責任のもとで生きていく、それが大事なんだ。日本でも、もっと早い時期に、子供を一人前の大人とみなして、自らの意志で生きていくのが当然といったような、そんな社会になっていってほしいね」と。二つの言葉を総合して僕なりに判断するとこうだ。与えられるもの、つまり受動的な姿勢でなく、自分の力で獲得していく能動的な姿勢でなくては、ますます自分自身が息苦しくなってしまうという事なのだろう。
 さらに「人間には逃げ出したくなる程の自由がある方がいい」とも語られる。高校の時から、単身交換留学生としてアメリカに渡り、また国際キリスト教大学2年の時、カリフォルニア大学へ留学し、その留学中も自らの専攻を国際政治学から宗教学に変更されたという数々の行動派の経歴を持つ三浦さんならではの言葉でもある。
 「自分の人生は自分で生きなければいけない」という仏陀の言葉を身を持って実行しているのが三浦さんの人生なのかもしれない。やがて、日本に戻り、京都に住み、フォークシンガーになったのも、自分で生きるという三浦さんの意志の表れである。そしていつも、人生の転換期には、なにか大きな力(具体的には目には見えないけれど)が三浦さんに働きかけるのだ。

  私は風の声を聞いた
  強い風に揺れる
  木々のざわめきの中に
  私は風の声を聞いた

  私は風の声を聞いた
  その分別を捨てて
  ただ生きて生きなさい
  私は風の声を聞いた

 村上春樹氏の「風の歌を聞け」にまるで呼応するかの様な、この「私は風の声を聞いた」は1969年に三浦さんがカリフォルニア・サンタバーバラで書いた歌である。
 「当時、ぼくはカリフォルニア大学を卒業したばかりで、日本へ帰るか、カリフォルニアに残るか決心がつかないまま悶々とした生活を送っていた。
 ある日、一晩、山の中で考えてみたいと思い、野宿するつもりで山へ登った。一本の木の下に坐り、四弘誓願を唱えていると、それまで微風さえ吹いていなかった山に、もの凄い風が吹き始めた。全山が轟々と音を立てて鳴った。しばらく風の音に対抗するかのように四弘誓障を唱え続けた。その時、『分別を捨てて生きて行きなさい』と言う声が聞こえたような気がした。その瞬間、心の中の苦悩は消え、ぼくは、月明りをたよりに山を下った。
 そして歌を書いた。ほとばしるように言葉とメロディーが出てきた。日本へ帰ることに、もう迷いはなかった」(「異文化の中で知った仏教」より)
 そのような、ひとつの大きな力は、三浦さんを三浦さん自身の人生へと導く。それは、真剣に自らを考え、なによりも自分の人生は自分で生きなければならないと、必死で考えるもののみに与えられる力ではないだろうか。
 三浦さんの人生で言えば、異文化での仏教との出逢い、そしてボブ・ディランの ″ミスター・タンブリンマン″の歌との出逢いなどなど。それら一つ一つの要因がその後の三浦さんの人生を形作っていくのである。誰にでもきっと、こんなふうに核となるべき出逢いとかはある筈なのである。しかし、常に自分の人生は自分で生きるという強い信念が無いと簡単に見過ごすのだ。
 三浦さんの生き方を見ていると、僕は感じる。思いっきり自由な生き方というのは、思いっきり厳しい生き方なのかもしれないな、と。
 自分の人生を自分で生きても一生。何かに束縛されながら生き続けても一生。どちらを選ぶかは本人次第という事になる。ただ、息苦しくなったり、窒息しそうになたりした時、束縛された生き方、誰かを頼りにした生き方の場合、多くは、人のせいにしたり、世の中のせいにしたりする。とんでもない事である。自分の人生なのだ。
 僕は今、珈琲を飲みながら、三浦さんの歌を聞いている。その声は、力強く、また暖かい。三浦さん自身も、まだまだ自分の人生をこれからも探求しょうとしているかのような歌声だ。
 秋の爽やかな風は相変らず僕の頼に吹いてくる。
 「これからもぼくは細々と歌い続けるだろう。誰のためでもない、自分のために歌い続けるだろう。70歳ぐらいになって、小さなコーヒー・ハウスの一角で静かに歌っていられたら素晴らしいと思う。」(「異文化のなかで知った仏教」より)

 取材を終えた僕は15年ぶりの歌声をようやく聞けたのだというその満足感を胸に初秋の午後をゆっくり歩きはじめた。柔らかな秋の陽光をいっぱいに受けた辰野の町は、先程来た時と同じように黄金色に輝き続けていた。 (1990年10月 辰野町三浦さん宅にて)
 本当はもつともっとたくさんの話を聞かせてもらったのだ。シヤーリー・マクレーンが最近出した本の事。近頃の宗教的な世相、そしてなによりも三浦さんの新しい歌の数々。
 それら全てはとても書ききれなかった。一つ言える事は、個人的にはすごく勇気づけられた感動的な一日だったという事である。
 みなさんもどこかで、三浦さんの歌と出逢えたらいいのにな、と心から願っているのです。

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