Hisashi Miura Early Essays Part 4 (1979年)

16. 老人と海
17. 松本には BREW HOUSE というおいしいワインを飲ませる店がある
18. 『軌跡のランニング』という本を読んでぼくは最近走り始めた
19. 学校ばかりでなくアルバイトからも学ぶことはできる
20. ぼくの手には3枚の百円札と、ほのぼのとした暖かい気持ちが残った
三浦 久

アルバイトニュースより


16. 老人と海 (1979年2月16日)
 10何年振りにヘミングウェイの『老人と海』を読んだ。最初に読んだのは学生の時で、リーディングのテキストとしてだった。その時は、老人サンチャゴが大魚の白い骨をかついでよろけながら坂道を家にむかって上って行くところが、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へむかって行くところと二重写しになって鮮明なイメージとして残った。
 この前、大学時代の友人に会ったら、ぼくは忘れていたのだが、そこのところについて彼と激論を交わしたとのことだ。ぼくがサンチャゴとキリストを結びつけるのは単なるこじつけだと、彼は主張したらしい。
 今度、ぼくの教えている英文購読のクラスでこの本をテキストに使った。読み終えた後、昔なぜあれほどにキリストのイメージにとらわれていたのかわからなかった。そう思えば思えないこともないが、この本を理解する上で本質的なことではないような気がした。それよりも、この老人の人間としての不屈の精神、生きようとする意志、少年マノリンとの友情等に心打たれた。だから逆にサンチャゴのイメージをキリストに投影してみれば、人間キリストの苦悩、喜び、愛などが浮き彫りにされるかもしれない。
 彼は年老いたキューバの漁師で、84日間も何も釣れなかった。85日目に6メートルもあるマカジキが釣り針にかかった。2昼夜にわたって彼と魚との戦いがつづいた。そして最後に力つきた魚の心臓にモリを打ち込む。しかし彼の戦いは終わったわけではなく、舟の横にくくりつけた大魚は帰る途中サメに襲われ、数匹のサメは殺すのだが、最後には結局、骨だけにされてしまう。そして彼は精根つき果てて港へむかう。「今や舟は軽快に進んだ。そして彼はいかなる考えも、感情も持っていなかった。今やすべてを超越していた。彼は港へ着くために、最善をつくし、できるだけ賢明に彼の小舟を進めた」のである。
 10何年振りに読みなおしてみて、サンチャゴはキリストというよりも東洋的な老賢者に近いと思った。ぼくがそれだけ年をとったからかもしれない。

17. 松本には BREW HOUSE というおいしいワインを飲ませる店がある (1979年3月1日)
 先日、松本へ歌いに行ってきた。歌い始めてもう10年にもなるのに、故郷の信州で歌うのはこれが初めてのことだ。林昌寺というお寺の本堂に50人ぐらいの人たちが集まって、歌を歌ったり、詩を読んだりした。
 その会の後、時間があったので、駅の近くの BREW HOUSE というお店に入った。まず入って驚いたのは、若者でごったがえしている京都の酒場などとはちがって、老人が3,4人静かに飲んでいるのである。そして次に彼らが飲んでいるもの見て驚いた。彼らはワインを飲んでいたのである。お店を見回して見ると、どうやらここはワイン専門の店らしい。
 ワインというと子供の頃は、女性と子供のためのお酒だと思っていた。正月や何かの祝い事があると、男たちは酒を飲み、女や子供たちは赤玉ポートワインを飲んだ。ワインといえば赤玉ポートワインのことだった。大の男がワインを飲むなんてことは考えられなかった。
 カリフォルニアに行って、ポートワインというのは甘いワインで、その他いろんな種類があることを知った。カリフォルニア、特にナパヴァレーはぶどうの名産地で、あちこちにワイナリー(ワイン醸造所)がある。カリフォルニアの男たちは(女たちも)ワインをよく飲む。
 食前に飲むワイン、食後に飲むワイン、いろんな種類があり、値段のほうも安いのから高いのまで実に様々である。カリフォルニアの乾いた気候にはワインがよく合うのだろう、ぼくもワインが好きになった。
 BREW HOUSE の老人たちはワインを本当においしそうに飲んでいた。雰囲気がとてもよくて、ぼくはカリフォルニアの酒場を思い出しながら、松本で醸造されたワインを飲んだ。だんだんと酔いが回るにつれて、気分がよくなり、老人たちと話しはじめた。若いマスターも話に加わりとても楽しかった。ぼくはギターを取り出して歌った。
おまえに会えてとてもうれしい
今夜は朝まで語りあかそう
明日のことは明日にまかせ
ディランを聞きながら飲みあかそう

18. 『軌跡のランニング』という本を読んでぼくは最近走り始めた (1979年3月16日)
 最近家の近くを走り始めた。車で距離を測ってみたら、およそ1.8キロある。まわりの者たちは三日坊主だと言っていたが、もう6日は走ったから当分の間はつづくだろう。
 走り始めたのは健康上の理由である。昨年の秋からどうも疲労がたまり気分がすぐれず、風邪を引くと長引いてなかなか治らない。以前から走りたいとは思っていたが、さまざまな口実をつくっては走らないようにしていた。それが突然走り始めたのは『奇跡のランニング』という本を読んで、いかに走ることが肉体と精神の健康に重要であるかということを知ったからだ。
 小学校の運動会ではいつもビリだった。足の遅いのは遺伝だと諦めていた。父兄の参加する競走では、母はいつも他の人たちから大幅に遅れて、まるでアザラシが走っているような格好でゴールにたどりついた。
 中学に入ってから全校マラソンがあった。距離はどのくらいあったのか忘れてしまったが、1年生のぼくはどういうわけ5位に入賞した。走るのは駄目と思っていたので驚いた。2年生になった時陸上部の先生に入部を誘われて、ブラスバンド部から陸上部へ移った。それまでは陸上大会っなどでは、ブラスバンドでアルトホーンを吹いていたのに、今度は自分が走る方になったのである。
 陸上部に入ってからはとにかく放課後、毎日走った。日曜日も夏休みも走った。その年の全校陸上大会1500メートルで、ぼくは生まれて初めて1等でテープを切った。時間は4分48秒だった。とても気分よかったことを覚えている。
 3年になって放送陸上2000メートルに出た。1500メートルまではトップだったが、ゴールした時は長野県で7位だった。それからその年の秋の県体1500メートルに出場するため文字通り必死で練習した。調子も上がってきて今度こそ入賞できると思ったが、大会の前日、盲腸炎にかかってしまった。ぼくのランニング歴はそこまでである。今からおよそ17,8年前のことだ。
 夜中に家のまわりを走っていると、あの頃のことが思い出される。走った後の気分は爽快である。当分病みつきになりそうだ。走りたいと思いながら、なかなか決心のつかない人はクイックフォックス社から出ている『奇跡のランニング』を読んでみたらどうだろう。

19. 学校ばかりでなくアルバイトからも学ぶことはできる (1979年4月2日)
 4月、新しい学年度が始まる。新入生は希望に燃えていることだろう。灰色と言ってもいい高校生活に別れを告げ、憧れの大学に入学した日のことを。
 しかし多くの学生が、当時のぼくがそうであったように経済的な問題で悩んでいることだろう。ぼくの場合は、学費及び生活費を全部自分で稼がねばならなかった。運よくぼくは学校の本館の教室と研究室を毎晩2時間掃除する仕事と、週2回の家庭教師の仕事を持つことができた。
 ある時、英作文のクラスで「学生はアルバイトをした方がいいか、しない方がいいか」について書かされた。ぼくはアルバイトをした方がいい、なぜなら経済的に親から自立することが、精神的な自立にもつながるし、仕事を終えてからの貴重な時間での勉強は真剣にならざるをえず、より効果的である、というようなことを書いた。
 アメリカ人の教師はその作文をほめてくれた。クラスの中で、アルバイトをした方がいいと書いたのはぼくひとりだったのである。
 アメリカではほとんどの学生がアルバイトをしている。裕福な家庭の息子や娘たちでも働いて自分で学費を稼いでいる者が多い。親から自立することが彼らにとってはとても重要なことなのである。20歳を過ぎたら、彼らは親といっしょに生活することはない。同じ町に住んでいても別々に住み始める。
 しかしアメリカの多くの学生がアルバイトをしているが、学校へ行かずにアルバイトばかりしているということはない。そんなことをしていたらすぐに退学させられてしまう。
 ぼくはカリフォルニアで学校へ行っている時もさまざまなアルバイトをした。シャンプーのセールスマン、皿洗い、YMCAの掃除夫、本屋の店員、日本語教師など。今考えるともう少し勉強する時間が欲しかった。しかし現実にはそれは無理だった。生活するためには働かねばならなかった。でも、それらの仕事の上で会った人たちから、学校では学べない多くのことを学んだということは確かなことである。

20. ぼくの手には3枚の百円札と、ほのぼのとした暖かい気持ちが残った (1979年4月19日)
 71年の夏、京都から北海道までヒッチハイクをしながら旅をした。リュックサックには手作りの歌集がつまっていた。行く先々で、ギターを弾き、歌いながら歌集を売った。1冊100円だった。名古屋、静岡、東京、仙台、そして名前も知らないいくつかの小さな町で売った。
 札幌の大通り公園に着いた時にはもう暗くなっていた。京都を出てから15日目、野宿とヒッチハイクの疲れがそうとう出てきていた。微熱がつづき、腸が極度に痛み、時には立ち上がれないほどであった。公園は夏祭りでにぎわっていた。
 ベンチに横たわっていると小雨が降ってきた。その時、山頭火の「しぐるるや死なないでいる」という句を思い出した。初めてこの句がわかったような気がした。
 しばらくすると雨は上がり、ぼくは歌集を売り始めた。お祭り帰りの何人かの人たちが足を止めて買ってくれた。その中に、3歳ぐらいの女の子を連れた若いお母さんがいた。彼女は財布から百円札を3枚とり出すと、「3冊下さい」と言った。ひとりの人が1度に3冊も買ってくれたことはなかったので驚いた。歌集を渡すと、彼女は子供の手を取って帰りかけたが、思い出したように振り向くと、2冊の歌集をぼくに返しながら、「同じだから1冊でいいわ」と言った。ぼくはしばらくの間、手をつないで去って行く親子の後ろ姿を見ていた。
 彼女はぼくの歌集が欲しかったわけではないだろう。無論同じものを3冊も欲しいわけがない。彼女が歩いて来て、去って行くまでほんの10秒ぐらいしか経っていなかった。一瞬の出来事だった。そしてぼくの手には3枚の百円札と、ほのぼのとした暖かい気持ちが残った。
 次の日ベンチの上で目が覚めた時、熱は下がり、気分も少しよくなっていた。百円札がめずらしいということもあって、その後少しの間、その3枚の百円札を持っていたが、結局、使わざるをえなくなって使ってしまった。顔も覚えていないし、もちろん名前も知らないが、旅の途上で出会った忘れられない人のひとりである。


Essays index