「メッセージ、今伝えておきたいことがある」

2000年4月23日(羽合町教育家庭教育事業)
三浦久講演会  レポート by 石川達之


三浦さんの作品との出会いは、「長野ジャーナル」というホームページの中で連載されている『ぼくが出会った歌、ぼくが出会った人』というタイトルのエッセイページを、インターネットを通じて知り合ったフォークマニアの友人に紹介されたのがはじまりである。

連載は1996.10.14に始まり、月に一編という信じられないペースで今なお続けられている。まず第一回の「風に吹かれて」を読んで、ぐいぐい惹きつけられ、結局すべてのエッセイをプリントアウトして一気に読んだ。一気に、とは言っても量的にはかなりなもので半日ちかく費やして読んだように記憶している。
これらのエッセイの魅力については私などが語るより、インターネットでそれらの中の一編でも実際に読んでもらうか、昨年平凡社から上梓された『追憶の60年代カリフォルニア(すべてはディランの歌から始まった)』という新書版のエッセイ集を手にとってもらうのが一番いいと思う。

それらのエッセイを知ったことで、ようやく三浦さんの曲にたどり着いたのである。
三浦さんの生み出した歌は、遠い世界で起こっていることだと思いがちの政治的事件を歌いながら、そこで失われて行く生命はあなたと同じ人間なのだ、という事実にくっきりとした輪郭をつけ、私達に突きつけてくる。
そんな曲もあれば、青年だった頃の氏が煩悶しつつ模索した日々が伝わってくる曲もあり、「恐れないで羽ばたけ」と励ましてくれる曲もある。
ペットボトルドリンクのように大量に生産され、消費されていく巷にあふれかえった「今時」の歌々はペットボトルほどにもリサイクルされることもなく人々の記憶から消えていく一方、このように真摯で豊穣な歌が歌われていることは稀である。今の時代、そのような歌に出会えたことは僥倖とすら言っていいのではないかとすら思えるのである。

アロハホール正面玄関入り口に

そんな三浦さんに実際に会いたい、と思い始めたのは昨年私が北アルプスに行った帰り、高速のサービスエリアで「辰野町」の地名を目にしてからである。そうか、この近くの町のどこかで三浦さんは生活しているのだ、と思うと急に会いたいという気持ちが強くなったのである。勝手な思いこみであるが、私のこの人生で会うべき人である、という気持ちはずいぶん前からあった。
だが、「寄ってくれればよかったのに」という三浦さんのメールに気を良くして、ほいほいと行くこともできなかった。じっくり考えて、来年には行ってみたい、などと考えていた。だが、それが多忙な氏の生活を乱すことになりはしないか、という危惧もあった。

それが数ヶ月前には予想もしなかったのに三浦さんと会えることになったのである。
しかも、私の住む鳥取県の羽合町で。

羽合町教育委員会の主催で行われている家庭教育事業の一環として三浦さんの講演が開催されることになったのである。
地元小学校のPTA副会長のM氏に、「それぞれの道」「純ちゃん」を聴かせたところ、ぜひ町内の小中学校の保護者に聞かせたい、とM氏が他のPTA関係者、町中央公民館長のK氏に働きかけ、さらにそのK氏が教育委員会の事業として実現にまで進めてくれたのである。

4月22日の夕刻、三浦さんは鳥取県のちょうど真中にあるJR倉吉駅に到着した。
公民館長K氏と二人で氏の到着を待っている時、K氏は、果たして三浦さんをすみやかに発見することができるんだろうか、という懸念を口にしたが、三浦さんの髪型が視界に入った瞬間に発見することができた。
到着した三浦さんは列車から降りながら改札の入口にいた私達に手をあげた。

車に乗りこむとすぐに羽合町に向かう。
羽合温泉の旅館「翠泉」で三浦さんは宿泊し、そこで我々と夕食を共にする予定であった。
今回の講演は羽合町教育委員会主催である。夕食に同席する「関係者」とは町中央公民館関係者と羽合町の小学校、中学校のPTA会長、そして役員でもなんでもない私である。単にきっかけを作っただけの私は、恐縮しながらの出席であるが、恐縮するのもアルコールが入るまでであった。

会食での話は弾みに弾み、明日の講演に差し支えるから早めに終わる、予定だったのに、結局は10時を過ぎていた。しかも締めは、当日都合でこられなくなった役員のために歌った三浦さんの歌だった。「それぞれの道」とアジアからの留学生の歌を聴いた役員達は三浦さんを部屋に見送った後も、溜息をつき、
「すごいなあ」
「うん、歌の詩があんなに迫ってくるのは初めて経験したな」
「俺もほんとにいろいろと考え直さんといかんわ」
「インターネットっていいなあ。俺もやるかなあ」
などと旅館のロビーでその場を去りがたく、しばらく話し合った。

翌朝、会場のアロハホールに向かう。
当日の開場直前のリハーサルである。ステージ横で歌う三浦さんを、K氏と二人で眺める。そして三浦さんを見る眼は、まだ誰も座っていない広い客席へと向かう。
不安だった。もっと時間があれば、もっといろんな方法を試みれば、この会場に立ち見が出るくらい人であふれさせることができたのではないか。様々な思いが交錯する。

開場直前、リハーサル風景

リハが終わり、開場時間の9時半になる。
何度もロビーへ出て客の入りをうかがう。
三浦さんには「倉吉時間」の話をした。鳥取県の中部は倉吉市が核となっているので時に、「中部」イコール「倉吉」という表現をするのであるが、「倉吉時間」というのは中部のイベント、会合などはほとんどの人が開始時間に遅れてくる、ということを大袈裟に言っているのである。
「大袈裟に」とはいえ、ことライブハウスでのライブ開始時間はプロが来てさえチケットに印刷された開始時間よりたいがい2、30分は遅れる。客も毎回開始時間がずれることを知っていてあえて遅れて行くのである。
そして倉吉のライブでも会合でも、後ろの席から埋まって行く、といういかにも山陰人を象徴するようなことも知らせた。

案の定、出足は鈍い。
祈るような気持ちである。

時間は10時になったが、まだ客は集まり切らず、二人、また三人、というように途切れてはまたやって来る、という状況で、開始時間を決断しかねた。このあたりが辛いところである。最初から来ている人のためには時間どおり始めたいのだが、やはり最初から通して聴いてもらいたいという気持ちも強い。

10時10分になり、三浦さんの穏やかな語り口で講演は始まった。

「それぞれの道」が始まる。
客席で私はステージと客席とを交互に見る。
約200人の客が入っていたが、ホールは495席である。関係者は立ち見が出るくらい集めたいという気持ちがあったので、満足はいかない。

そんな私の複雑な心境にはお構いなしに、客はじっとステージを見つめている。歌で始まる講演なんて誰もがはじめての経験である。
ハープの音が流れ、三浦さんの低い歌声が広い会場に響く。が、ギターの音があまりに小さいので客席後部の高い所にあるPA室を見上げるが、暗くて室内の様子はわからなかった。まさか歌の途中に三浦さんにそれを知らせることもできない。どうしよう、と思いながら会場を見ると、観客は誰もがシーンと歌に聴き入っていた。こんなことを言ってはミュージシャンとしての三浦さんに失礼かもしれないが、もはやその時点でギターの音色やボリューム、コーラスの強弱、リバーブのかかり具合などまったく問題ではなくなっていた。歌の歌詞が、三浦さんの発する声が、ダイレクトに聴衆の心に染みていくのがわかった。

拍手が響きわたり、三浦さんはどうしてこの鳥取県の羽合町に今自分がやって来て講演をするようになったかという説明をした。
三浦さんと私がインターネットのウェブのあふれる大海の中で出会わなければ、今日のこの講演はなかったんだな、とあらためて思い、嬉しさと誇らしさとを感じていた。
が、私ひとりがいい気になっていてもいけない、と思い、またも客席の様子を見る。

三浦さんは自分の生い立ちを話し、自分の子供の頃は使っていた物はすべて自然にかえるもので出来ていた、と話を続ける。

三浦さんの授業を受けていたアジアからの留学生の話を、観客は食い入るように聞いている。
そしてその留学生の歌が始まる。
長い歌である。小中学生のいじめや不登校というテーマとはかなり離れたこの歌が、果たして観客にどのような受け入れられ方をするのか興味深かった。長い歌なのに退屈した様子の客はいない。
まるで映画のようにある意味非現実的なこの悲劇の歌が、ほんとうにこの同じ地球での出来事であることなのだというリアリティを持って、ホールの中に広がっていった。
歌の途中、あちこちでハンカチで涙を拭く姿が見られた。
それを見て、「良かった、成功した!」と私は安堵した。

熱唱する三浦さん

私はCDで何度も何度も聴いていた歌なので、初めて聴く観客のインパクトがどれくらいのものであるか量りかねていたが、これで観客が長い歌詞のひと言ひと言を聞き漏らすまいと耳を澄ませていたのがわかった。

三浦さんは、歌を一度やめ、そして再び始めるきっかけになった天安門広場事件のことを話し、やがて母親の話をし、他人がよその子供を叱ることがなくなった現状のことを話した。

三浦さんがディランに初めて出会った曲である「風に吹かれて」が始まる。
ギターの音もしっかり出るようになり、とてもいい感じである。

三浦さんは集団と個の問題について語り、孤独であることが人間には必要である、と語る。
孤独は創造力の源である、と語る。孤独にならないと自分に向き合うことができないのだ、と。

「ガビオタの海」が終わった。
諦めずにもう一歩踏み出そう、と氏は語る。
失敗を恐れるな。失敗しない人生なんてあり得ない。道を外れてみてこそ道が見えてくる。
羽合町を出て初めて羽合町の良さがわかるように。

孤独であることを恐れず、創造的に生きよう。大人自身がリズムを持ってクリエイティブに生きることが一番いいしつけになるかもしれない。親が楽しく生きれば子供も楽しく生きようとするのではないか。

こんなふうに断片だけを並べて見ると陳腐な感じがするかもしれないが、三浦さんが語ると情熱的であって押し付けではない見事な説得力を持つ。


今回のこの講演のきっかけとなった曲のひとつ「純ちゃん」が始まる。
観客のほとんどが涙を流しているのがわかった。
私がCDで初めてこの曲を聴いた時も涙を流したものだが、それから何回も聴いているのに私も涙が出そうになった。

曲が終わって拍手まで少し間があった。静まりかえったほんの数秒のその間が、観客の苦しいほどの感情移入の度合いを象徴していた。

三浦さんは「純ちゃん」の現在を伝える。その事実は苦しい経験をした、またしつつある観客の大きな救いになったに違いなかった。

「あの果てしない大空へ」が始まった。

「あの果てしない大空へ」を歌う三浦さん

 おそれないで思いきって
 飛んでみるんだ
 お前の心の中にある
 力を信じて

最後は「ふるさと」の合唱となった。
JRでやってきた三浦さんは、列車が鳥取県に入ってから、なぜかホームに到着するたびに「ふるさと」が流れるので不審に思っていたとのこと。前日の会食の折にその話題が出て、「ふるさと」の作曲家が鳥取県出身の岡野貞一だと聞かされて得心がいったとのことだった。「ふるさと」のふるさとは鳥取県だと鳥取県人が思っているように、「ふるさと」の作詞をした高野辰之の出身地の長野ではやはり「ふるさと」といえば長野県であるようだ。それがまた三浦さんと我ら鳥取人との縁を感じさせてくれたので、場内は山陰人の集まりにしてはめずらしく大合唱となったのである。

講演が終わってから楽屋に行ってみると三浦さんがいない。
ロビーには三浦さんのCDや本を買おうとしている人が見えるが、三浦さんの姿がない。あっちこち探していると、観客に何重にも囲まれた中にいてCDや本にサインしていた。
それにしても客も熱狂的である。サインをねだり、握手を求め、熱っぽい口調で話しかけていた。
一生懸命アンケート用紙に書き連ねている人も沢山いた。
CDも本も飛ぶように売れた。この観客数でこの売上枚数とは驚きである。
その場にいた私は、売りきれてしまったCDはどうすれば注文できるのかなどと、何人もの人に尋ねられた。

顔見知りの人達がつぎつぎに話しかけてきた。
「すごく良かった。講演でこんなに感激したの初めて」
「三浦さんを呼ぶきっかけ作ったなんてスゴイわ。ほんとにええことしなったなあ」
そう言われると、単にきっかけづくりだけで何にもしてない私なのに、自分自身が絶賛されたようにいい気になった。素直に嬉しかった。

講演は12時に終わったが、残って話す観客が多く、昼食をとりにレストランに入ったのは1時半だった。
昼食には三浦さんとK氏と私、それに一緒に食事しながら話したいという女性を加えた4人で行った。講演を聴いてファンになったその女性は三浦さんと同年代で、地元羽合町で外国人に日本語やウクレレを教えている女性である。

レストランに行くと、みんなでアンケートを読んだ。
ほとんどの人が回答したようである。こんなに回答率が高い講演も他になかっただろう。
用紙の大半は長文で三浦さんへの感謝の言葉と自分達の思いが書いてあった。
「泣きながらアンケート書いている人もおったで」
とK氏が言う。

この農繁期の晴天の午前、ただでさえ日曜の午前は何かと地域の行事も催されるというのに、わざわざ足を運んできた人達である。いろんな思いを抱えているはずである。
講演者の情熱と観客の情熱がひとつになってこそ、あんな見事に感動的な講演になったのだと思う。

その後も4人でドライブに行き、いろんなことを話した。
三浦さんが列車に乗る5時まで話しつづけた。地元の名所となった中国庭園に行ったが、話したいことが多くて観光どころではない、という気持ちもあった。

「山のないところには住めないですね」
と三浦さんが言い、みんなはうなづく。
「山も川も海もあって、いいところですね。それに食べ物はほんとにおいしいですね」
と言われて、良かったなと思う。
講演の日時と列車の時間などいろいろとあったようだが、三浦さんは「羽合町の人達に会いたい」と言って、長時間列車に揺られてこの地に来たのである。のんびりした羽合町の風景が気に入ってもらえて良かったと、地元勢の三人は喜んだ。

「辰野町」が「たつのちょう」ではなく「たつのまち」と呼ぶんだと教えてくれた三浦さんは、その頃には「羽合町」を「はわいちょう」ではなく「はわいまち」と呼んでいた。そんなふうに「羽合町」に親近感を持ってもらったのだ、と私は解釈して聞いていた。

講演で疲れているはずの三浦さんは、終始みんなに気を配り、それぞれに話しかけ、みんなにコーヒーをご馳走してくれた。これではどちらが招かれたほうなのかわからない。

三浦さんを乗せた列車を見送ると、
「いい人だなあ」
「すごい人だ」
「気難しい人だったらどうしようかと思っとったけど、気さくな人で良かった」
帰りの車中ずっと三浦さんの話である。

アロハホールをバックに三浦さんと私

家に帰ると、やはり講演で感激していた妻とまたも三浦さんの話である。
妻にも、かねてより彼女が今回の講演のことを知らせていた友人・知人から次々電話がかかり、感激した者同士の長い話をしていた。
その友人達も子供がいじめにあっていたり、自分自身がいじめにあっていたりしていたので感動がひとしおであったのだろう。
「今まで自分のやってきたことや考えていたことが正しかったと認められたみたいで、嬉しくて涙が流れた」
「頑張って生きて行こうと思った」
熱い感想ばかりだった。

その時には、三浦さんのメッセージの塊のような歌が心に染みてくるのは、メッセージを発するシンガー自身に気負いも押し付けもないからだ、ということがわかった。
しかしそれは、並大抵のことではないことくらい、私にもわかる。

三浦さんの講演の影響がどんなふうに広がっていくのだろう。
アンケート中で多かったのは、「こんなにいい講演なのに、どうしてもっと沢山の人が集まらないんだろう。悔しい」というような内容のものが多かった。その思いが口コミで広がって行けば、またこの鳥取県で三浦さんの話を聞くことができるだろうと思う。おそらくその波は今、熱く静かに広がっていきつつあるに違いない。

小中学校の荒廃は全国的な傾向であろうが、我々保護者に何ができるか、そしてどうすれば親も子供もクリエイティブに生きられるのか、焦らず、諦めず考えていかねばならないのだ、と参加者の多くはアンケートに答えている。
三浦さんの講演はひと時の感動ではなく、もっと人間の根深いところに炎をつけてくれたような気がするのである。

蛇足ながら、今回の三浦さんの講演のおかげで何人もの人と知り合えた。その人達と、また新たなつながりを広げていけそうである。
そして私は、三浦さんに会ったら話したいと思っていた事柄の山が、一向に低くなっていないことを今感じている。


Update 29 Apr, 2000

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