「三浦久年末ライブ2002」を聞いて

片瀬美緒


毎年師走の声が聞こえてくると私の頭の隅に顔を覗かせるものがある。それは「クリスマス・キャロル」の公演と「三浦久年末ライブ」だ。このふたつは、近年欠かさず足を運ぶ年中行事になった。

曲は音。詩は言葉。たとえば、歌詞のないメロディーを聞いて心を動かされるのはなぜだろう。そこには人間の知らない言語がある。詩も音も言葉だとしたら、それらは組み合わされ、より創造的に心に働きかける。

たとえば、三浦さんの創る音楽は詩が重要で音は単調そうに聞こえる。しかしあの詩にはあの音。あの音はおそらく詩だけでは聞こえてこない何かを生み出している。何度聞いてもその歌を新しくさせる、そんな音だ。

今年の年末ライブは12月17日。その朝は海を思い起こさせる強い風が吹いていた。夕暮れになると蒼い空に漂流した細い薄紅の雲がたなびいていた。

マンダラ2の地下に潜る階段を下りていく。なんとなくアカデミックな雰囲気が漂っている。客層のせいに違いない。しばらくすると、ほの暗い暖色の光の中に三浦さんが現れる。何度も聞いた曲からライブが滑り出す。

「サンタバーバラの夏」は輝き、「碌山」は燃え上がる。「詩集」はロマンティックだ。

これらは幾度となくライブで聞いた歌である。しかし私の想いは前回とも、前々回とも、その前ともじつに微妙に異なる。なぜだろう・・・。あるひとつの物語が、聞く者のその時の気持ちや人生のある瞬間を、こころの鏡に映し出すからなのか。

その次は前もってリクエストされていた「薫子」だった。これも何度も聞いた歌だ。紹介する際のセリフも同じ。結婚する前に奥さんから「他の女性の歌はたくさんあるのに、私の歌がない」と言われて書いた歌であるとのこと。しかし、今回はいつもとは違って聞こえた。それはこの歌の主人公である奥さんが今年は一緒に来られなかったからだろうか。

奥さんを年末ライブで見かけなかったのは、私の記憶では今回が初めてだ。三浦さんはこの一年で大きな変革を迎えた。長い間続けてきた仕事を辞めたのだ。そしてそれと時を同じくして、奥さんに新しい仕事が入り、その日上京出来なかったとのこと。ステージの上で奥さんが一緒に来られなかった訳を語る三浦さんの様子が何ともいえずほのぼのとしていた。何故だかわからないが胸を打たれた。私の人生のある瞬間がこころの鏡に映し出されたせいなのか。愛とはこういうものに違いないとふと思った。

人生は地球の自転のように動いている。静かに重みを持って。いつかは必ず離ればなれになる日がどんな夫婦にもどんな家族にもやってくる。けれどそれまでは、あんな風に共に歩いてゆきたい。そう思った。リクエストしてくださった方に感謝。この歌を聞いたことのない方には是非一度聞いてもらいたい。


三浦さんに変革をもたらしたもうひとつのものは、「カムサハムニダ、イ・スヒョン」である。この歌は2001年1月26日に新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとして亡くなった韓国からの留学生に捧げられた歌だ。昨年のライブで初めてこの歌を聞いたときの衝撃を覚えている。その後すぐにこの歌は韓国語に翻訳され、CD化された。その結果、この1年の間に三浦さんは3度も韓国を訪問することになった。そして、イ・スヒョンさんのご両親に会い、墓参をし、高麗大学の追悼コンサートで韓国の人たちを前にして、韓国語でこの歌を歌ったのである。

三浦さんは、韓国での体験を語った後、日本語で通してこの歌を歌った。そして次に、韓国語で、後半だけだったが、歌った。それを聞いたとき、この歌がよりリアルなものに感じられた。

そして「アリラン」。この歌をうたう前に、三浦さんのICU時代の同級生で、韓国に20年間住んでいたという東京女子大の兼若(かねわか)先生がステージに上り、韓国語の発音を指導した。それから韓国語と日本語で大合唱。同じ歌が大切に育まれ、またこの場所でみんなと再会した。聞いたことがあるだけだった歌が新しく意味を持って歩き出した。そんな気がした。

新曲「新しい光迎えよう」では、大空の広がりや、その空を昇っていくような感覚を味わった。最近の三浦さんの歌には、未来への広がりを感じさせるイメージをもつものが多い。この歌もそのひとつだ。

「紙ヒコーキ」では施設に入られたお母さんのこと、「父よ」では三浦さんが生まれる直前に亡くなったお父さんに対する思いが語られた。

この歌を聞きながら、私は自分の父のことに思いを馳せていた。私の父は私が17の時に亡くなった。無口だった父と充分に語り合えなかった私は、度々、人は地球上のひとつの生物、大地の子、海の子、太陽の子なのだから、父が何を想って生きていたか知らなくても平気だと思い込もうとした。

それでよかったのだろうか・・・。よくなかったと今なら言える。自分のルーツがアイデンティティを揺るぎないものにする。そのことはその次の「フィールド・オブ・ドリームズ」という歌からも伝わってきた。レイ・キンセラのように、追い掛ける父親像。求め続ける「折り合い」。こころ動かされた。

その次の歌は「山頭火」と「俺のいない町」のメドレー。山頭火は「孤独独一」の代名詞のような存在である。私の祖父母は、山頭火がしばらく身を寄せていた山口県小郡の其中庵のすぐそばに住んでいて、山頭火とも交流があったという。

昨年亡くなった祖母は「着る物はいつも同じじゃったけど、ひとつも汚い感じのせん人じゃった」と話してくれたことがある。また、家族を捨て放浪していた彼は、子どもだった私の父とよく一緒にお風呂に入ったとのことだが、残してきた我が子のことを偲んでいたのだろう、と祖母は言った。

生き物はみな、独りで生まれ独りで死ぬ。山頭火は究極のものを突き詰めたいと、放浪を重ね、俳句を書いた。そして今、彼の生き方に憧れる者が少なくない。しかし、当時は、近所の人々から「ほいとう」と言われ避けられていた彼の人間性と知性を見抜いていた者はそう多くはなかった。だから、祖母の話を聞いたとき、とても嬉しく感じたものだ。

最後の曲は、おそらく現在の三浦さんの原点となっているのであろう「ガビオタの海」だった。

いつもは社会問題的な歌も数曲含まれていることが多い。例えば「ミン・オン・トゥイーのバラード」や「ヴィクター・マトム」である。しかし、この日は社会派的な色彩が薄かった。実はライブ以前、私は「ヴィクター・マトム」をリクエストしようかと思っていたのだが、後半でそれをしなくて良かったと思った。

今回のライブでは、ニュースを題材にしたトピカルソングを離れ、生きるための普遍がテーマだったように思う。苦悩との闘いが生きるものを美しく気高くさせる。碌山もイ・スヒョンさんとその家族も、レイ・キンセラも山頭火も、三浦さんのお父さんもお母さんも、そして彼らの苦悩との闘いを歌う三浦さん自身も、まさに碌山が「Struggle is beauty.」と言ったように、苦悩を通して「美」までに昇化されているように思えた。そして彼らの
「人生」を聞くことによってこころに映し出される「自分」を観る私たちもまた・・・。

ライブがひとつのストーリーのようであった。

アンコールは、「丁度よい」「風に吹かれて」「大きな古時計」、そして再び「アリラン」だった。正に丁度よかった。すべてが終ったとき、いつの間にか張りつめていた心地よい緊張感から解き放たれ、とても気持ちが和んでいるのが分かった。

ライブの間、何人もの人がうなづき、涙を流しているのが見えた。

三浦久の歌は言葉である。

ライブを終えたあと、三浦さんと語ることができるのもこのライブの楽しみのひとつ。しかし、年末ライブは三浦さんの同窓会でもある。もう少しお話したかったが、三浦さんは忙しかった。「ごめんなさい!」と笑いながら、古い友人たちの待つ街に繰り出して行った。
 
見上げると風のあと
雲が去り濃紺の空
東京の星
光を放つ真白な12番目の月
なんて透き通った気持ち
私もゆっくり歩き出し、家路についた
三浦さん、今年もどうもありがとう






Photo by Seiichi Tanaka, Dec. 17, 2002


● Setlist

1.サンタバーバラの夏
2.碌山
3.詩集
4.薫子
5.カムサハムニダ、イ・スヒョン
6.カムサハムニダ、イ・スヒョン(後半の部分を韓国語で)
7.アリラン [ここで兼若(かねわか)先生登場]
8.新しい光迎えよう
9.紙ヒコーキ
10.父よ
11.フィールド・オブ・ドリームズ
12.山頭火/俺のいない町
13.ガビオタの海
アンコール
14.丁度よい
15.大きな古時計
16.アリラン



● 当日ちらし

今年もこうしてみなさんにお会いすることができて、とても嬉しいです。この年末ライブは、清水国明氏のプロデュースで94年12月21日に1回目が開かれてから、今年で9回目になります。とりあえず10回はやろうと思って続けてきましたが、来年10回目になります。もうそんな長い時間が経ってしまったのかというのが偽らざる思いです。

実は、年末に東京でライブをすることにしたのは、学校の長期休暇のときしか活動ができなかったからです。しかし、今年の4月に、京都時代を含めると27年間の専任教員の仕事を辞めたので、これからは年末でなくてもいつでもできることになりました。来年はとりあえず年末に行い、その後は、東京でのライブを続けるかどうか、続ける場合には時期をいつにしたらいいか等、考えてみたいと思っています。

そう思ったのは、今回数名の方からメールや電話で、この時期は行きたいけれど忙しくて行けないという主旨の連絡をいただいたからです。長期的な不況の中、師走は、どなたにとっても忙しい大変な時期であることは確かです。その意味でも、今日お越しくださった皆さんに、心よりお礼申し上げます。

この1年、経済的な不況と昨年の9・11の余波の中、国の内外で「出口なし」の暗いニュースが続きました。もし田中耕一さんのノーベル賞受賞とその後の言動がなかったならば、本当に救いようのない年になっていたかもしれません。スウェーデンに押しかけた異常な数の日本人ジャーナリストが、田中さんの一挙手一投足を追い顰蹙を買いましたが、それは日本に蔓延している「救いなさ」の裏返しだったのかもしれません。

彼の変人ぶりがさまざま伝えられています。ぼくがいいなと思った変人振りは、子供のころ彼は電車の運転手になりたかったのですが、会社へは嵐電(京福電鉄嵐山線)で通い、必ず運転手の後ろに立っているというところです。受賞後の現在も嵐電で通っているかどうかは定かではありませんが。

どうも最近は「変人」によって世の中が動かされている気配がします。長野県においても、全国に報道された出直し知事選の結果やその後の目覚しい変革を見てもそのことは明らかです。かつては、異質なものはできるだけ排除しようとする力学が働きがちでしたが、そのことによって徐々に社会のダイナミズムが失われてきたのだろうと思います。そして今や「変人」でなければ社会を変えることができなくなってきたのかもしれません。

ぼくも時には変人と呼ばれることがあります。しかし今でも鳴かず飛ばずのフォークシンガーでいるところをみると、「変人度数」が足りなかったのだろうと思います。これからは、お互い、もう少し変人に徹したいものです。

ぼくにとっての2002年は、富士見高原病院で1月8日に眼瞼下垂(がんけんかすい)の手術を受けたことから始まりました。

ホームページの掲示板に、最初に眼瞼下垂という聞きなれない名前を聞いたときから、手術後の状態までを詳しく書き込んだのですが、それがAERA編集部の目にとまり、AERAの記事になりました。現在発売中の「婦人公論」にも眼瞼下垂の記事が載っているようです。もしみなさんの中に、長期的に肩こりや頭痛に悩まされている方がいましたら、眼瞼下垂を疑ってみて下さい。詳しく知りたい方は、ぼくのホームページの「眼瞼下垂症との不思議な出会い」を読んでみて下さい。

2002年にぼくにおこったことで、もう一つ特筆すべきは、「カムサハムニダ、イ・スヒョン」が韓国語に翻訳され、そのCDをスヒョン君のご両親にお渡しするために、また高麗(コリョ)大学の追悼コンサートで歌うために、5月に2度、9月に1度、韓国を訪問したことです。5月の2度の訪問は韓国国営放送KBSによって取材撮影され、ワールドカップ直前にニュース番組の中で放映されました。

この3度の訪問を通して「近くて遠い」国であった韓国が、とても身近な国になりました。韓国の人々に大きな親しみを感じるようになりました。

現在、拉致問題が大きくクローズアップされ、朝鮮半島をめぐって緊張が高まっていますが、北朝鮮と韓国、そして日本の関係が、過去の忌まわしい歴史的経緯を乗り越えて、自由に往来できる、そして互いに尊敬と親しみの思いをもって接することができる隣人になることができるよう願わずにはいられません。
(三浦 久)
=第9回三浦久年末ライブ in 東京=
「新しい光を求めて」
12月17日(火)
会場 : MANDA-LA2 TEL 0422-42-1579 JR吉祥寺駅

update 25 Jan, 2003

Essays index