三浦久―生きるための歌

浜野サトル

アルバム「メッセージ」 ライナーノーツ


 宮沢賢治描くゴーシュは、オーケストラの楽長に叱責され、連夜、家に帰っては練習に励む。夜を徹してセロを弾く彼のもとには、毎晩、不意の客が訪れるのだが、ご存じのとおり、彼らは猫、カッコー、タヌキ、野ネズミといった動物たちである。
 ゴーシュは邪魔だてする彼らに腹を立て、ときには相手を傷つけながら必死で練習を続ける。物語の大半はそうした場面の連続であり、そうしてみると、この物語の本質は、よく言われるように、「不退転の決意が万難を排して突き進む」ところにあるのだろうか。いやいや、そうではあるまい。
 細部に注意しながら読むと、一見粗野な動物たちはゴーシュよりもむしろ繊細で、怜悧で、そのためにときに辛辣な口調になるのがわかる。練習を中断したゴーシュを、「ぼくらならどんな意気地がないやつでものどから血が出るまではさけぶ」と、カッコーはなじる。ゴーシュが繰り出す音を聴きながら、「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ」と、タヌキの子はつぶやく。そう、ゴーシュの目から見れば愚かな聴き手にすぎない彼らは実はたぐい稀な批評精神を宿していて、その一言一言が知らぬ間にゴーシュの「精進」を後押しするのだ。
 それにひきかえ、1990年代も残り少なくなったいま、この国の音楽とそれをとりまく状況はどうだろう。毎月いや毎日、新しいCDがこれでもかこれでもかと工場の生産ラインから吐き出されてくるのはこれまたご存じのとおりだが、その量が増えれば増えるほど、入手が手軽になればなるほど、歌や音楽は単なる断片化した情報となり、情報慣れした聴き手によって巧みに処理されていく。一方、聴き手にどれほど批評精神が欠けているかは、彼らに支持される音楽が顔や姿こそ変わってもほとんど同じテーマ、同じリズム、同じメロディーを繰り返す、ひどく均質化した世界であることがもののみごとに証明している。
 こういうこの国の音楽状況に三浦久の歌をぽんと投げ込むと、彼がどれほど独自のスタンスに立っているかがはっきりする。彼がやっていることと時代の流行との間にはおそろしいほどの断絶がある。どう見ても、彼は少数派だ。少数派どころか、孤立していると言っていいかもしれない。
 しかし、本当の意味で時代そのものに深くかかわっているのは、はたして彼のような歌い手と流れに乗り続ける連中のどちらだろうか。その答えははっきりしている。それは、例えば、このアルバムにおさめられた歌の、次のようなフレーズ1つ見ただけであきらかだ。
与えられることに慣れ
指図されることに慣れ
飼いならされてしまうなよ
(「あの果てしない大空へ」)
 彼の歌は、「だれかに向かって語りかける」ことを基本的なスタイルとしている。歌であり作品である以上、それ自体は常に不特定多数に向かって開かれてはいるのだが、彼が歌を発信する相手は抽象化されたマッスとなった薄気味の悪い社会ではなく、いつも具体的なだれか――彼の家族であり、友人であり、あなたであり、僕であるようなだれか――なのだ。
 歌そのものも、常に特定の個人――彼自身を含めて、身近にいる誰か、あるいは遠い存在であっても息づかいが感じられるようなリアリティーをもっただれか――をめぐって展開する。これは、例えば彼自身の体験を風と風景に託したとおぼしき「宝福寺にて」や『マディソン郡の橋』を下敷きにした「フランチェスカ」のような、一見対照的な作品をつなぐ共通項である。
 ある個人の具体的な思いや生活に徹底してこだわる彼の歌は、だからしばしば長いバラッドの形をとる。そこでは、ときにいまのこの国では想像すらできない過酷で悲劇的な他国の人生が描かれたりもする。
父は独立戦線の闘士だった
彼は仲間と山の中に逃げ
最後の最後まで抵抗したが
とうとう捕らえられた

母は私と妹を連れ
捕らえられた父に会いに行った
その時の父の姿
今でも忘れられない

生づめをはがされ、目はつぶれ
頬は紫色に腫れ上がっていた
父は苦しそうに母に言った
「国を出ろ、みんな殺される前に」
(「アニー・イナシオのバラード」)
 しかし、歌がしばしばこの世界の現実をリアルにすくい上げてくるからといって、三浦久を60年代に活躍した歌い手の何人かがそうであったように、「時代に抗して生きる歌の闘士」などと評してしまうのは早計である。まず第一に、彼の歌は声高なアジテーションになることはほとんどない。何かを批判し断罪するよりも、彼は疑問を投げかけることを選ぶ。いま引用した「アニー・イナシオのバラード」にしてもそうである。
 彼はおそらく、この世には人間の数と同じ無数の物語があり、幸福な物語も不幸な物語も等しく語り歌う価値があると考えているのだろう。彼の歌づくりのスタイルは、その意味では60年代のプロテスト・ソングやトピカル・ソングの歌い手たちよりも、ましてや自分の内面を一歩も出ないことによって自家中毒を起こしたあげく私小説的な感想の吐露に終始したこの国の歌い手たちよりも、精神のあり方においてはるかに自由である。
 それがしばしば衝撃なしには聴けないような悲劇的な物語として結実するのは、生きているかぎりだれもが現実から逃れることはできないし、政治も戦争も宗教も恋愛も不倫も希望も挫折もどこかで自分自身とつながっていて、確実に自分を追ってくるものだからである。鋭敏な感覚の持ち主なら、ふと立ち止まり耳をすますだけで、この世界の混濁した人間模様がどっとばかりに押し寄せてくるのが聞き取れるはずだ。
 三浦久はそういう鋭敏な感覚を持った一人として耳をすまし、その大きな耳で自分が生きている世界の足音をキャッチする。彼は感じ、考え、思いのたけを言葉に託す。そうして、彼は彼自身の内面を通過していくいくつかの物語をその自在な精神で歌に結晶させるのだ。
                        *      *      *   
 三浦久は、いまのこの国では絶滅しかけているといっていいすぐれた「バラッド歌い」であり、彼の一番の美質もそこにある。彼の歌はあきらかに物語ることに重点がおかれていて、人によってはメロディーの変化の乏しさやリズムの単調さに物足りなさを覚えるかもしれない。曲の長さ1つとっても、彼の作品の多くは昨今のポップスの平均値を大きくはみだしている。
 しかし、もしもあなたがただそれだけで退屈や苦痛を覚えるとしたら、たぶんあなたはメディアを間断なく流れ続ける音楽、ぼんやりと受け身でいるだけで充分に楽しめる音楽をあまりにも多く体験しすぎているのだ。そう、「あの果てしない大空へ」で三浦久自身が歌ったように、あなたは「与えられることに慣れ」、「飼い慣らされて」しまっている。
 言葉の1つ1つをかみしめるように歌いながらそれらの言葉を聴き手の胸のうち深くに送りつける彼の歌は、すべての聴き手が受け身の存在であるはずはないことを信じているのだろう、聴き手に自分で感じ、考えることを要求する。そのことによって歌があなたや僕自身のものになることを願うように。
失われたおまえの人生、誰が償ってくれる
失われたおまえの人生、誰が生きてくれる
(「門」)
 歌であれ、詩であれ、音楽であれ、人が表現に向かうのは、何ごとかやむにやまれぬものを内側に抱えているからである。彼はそれを形にすることで、受け手との間に対話の糸を結ぶ。それは彼自身がよりよく生きるためであると同時に、受け手にもよりよく生きてほしいと願っているからだ。
 ゴーシュは、動物たちとの感情的なやりとりを通して彼自身の内側深くにうもれていたものを呼び覚ました。そのことによって彼は楽器の上達以上のものを体得し、一人舞台に立って聴衆の魂を奪う。そのとき、ゴーシュと聴衆は公会堂を満たす充実した沈黙の中で生きる力を共有したのだ。
 三浦久の歌もまた、そのような意味での「生きるための歌」である。
(1997・2・8/東京・吉祥寺で三浦久のライブが行われる日に)

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